思案中

あなたの暇つぶしになれば

今週のお題「芋」 芋料理への思い出

 ジャガイモ、サツマイモ、里芋、山芋。芋、旨い。この時期に芋といえばサツマイモだろう。甘くて旨いし、スーパーでは焼き芋状態で販売されているから、すぐに食べられる。料理する手間が無いのはもちろん、片付けの手間も無いのがなお良い。芋からずれるが、サツマイモの他にも、栗やキノコや米や魚、秋は自然の恵みが嬉しい猛威を振るって我々の食を充実させてくれる。収穫の秋に万歳だ。最近、自炊が面倒くさく、料理をしていない。料理は煮込むだけで出来上がる、麺類一択の生活だ。私は久しく「芋」を食べてない。今週のお題は「芋」だが、実家にいた時に食べた芋料理を思い出して書いてみる。

 

今週のお題「芋」

 

 芋と言えば何があるだろう。知っている範囲では、ジャガイモ、サツマイモ、里芋、山芋の4つだ。

 ジャガイモはカレーやシチューや肉じゃが、あとお味噌汁等、値段が安いし何にでも使えるのが良い。飲食店では、マックのフライドポテトやセブンのハッシュドポテト、お菓子ではじゃがりことかポテチとかだな。ポテチいえば、小池屋の青い袋のポテチには驚いた。しかし意外と売れ行きは良いらしい。あと、驚いたのが、居酒屋のポテサラだ。初めて居酒屋でポテサラを見たときは驚いた。黒と焦げ茶の中間のような色で、縁が凸凹とした不定型な渋い皿の上に、綺麗に盛り付けられていた。黒こしょうがたっぷりと振りかけてあった。「ジャガイモのほのかな甘さとねっとり感が、黒こしょうのスパイスで引き締まる」とか、食べてもないのに脳内で食レポをしてしまった。「それにしても、何故居酒屋にポテサラ?」絶対酒に合うわけがないと思っていた。しかし、意外と酒との相性は良いらしい。ポテサラの意外な一面を見た。いつか酒と一緒に食べてみたい。

 それにしても、ジャガイモはどうしてこんなに沢山の料理と合うのだろう。人間で言えば、どこの会社でも仕事ができる、優秀なビジネスマンみたいだ。これからは「どんな人間になりたいですか?」と聞かれたら、「ジャガイモみたいな人間になりたいです」と答えることにしよう。

 

 サツマイモは甘いから、スイートポテトや大学芋など、もちろんそのまま焼いて食べても良い。最近は石焼き芋専門店などが東京にはあるらしい。ニュースで見た。大学の時にいたサークルの後輩も、大のサツマイモ好きで、いつかサツマイモ専門店を開きたいと言っていた。彼女曰く、滅茶苦茶沢山の種類があって、それぞれ食感も味も違うとのこと。私はサツマイモは好きだが品種とかまでは興味が無かったので、そのことをその時に初めて知った。

 サツマイモの食感について、日本ではねっとり派とホクホク派に分かれていると、私は勝手に予想している。実家にいたときはホクホクばかりを食べていた。何故ならそれしかなかったからだ。それが社会人になり実家を離れたら、ねっとりタイプしか見かけなくなった。ねっとりを食べて分かったのは、自分がホクホク派の人間だということだ。ねっとりしていて甘さが強く、口の中にそれが居座る(物理的に)。甘いのが識名人には良いかもしれないが、私には甘さが強すぎた。また、油断して熱々に齧り付いてしまった時は、上の歯の裏側に張り付くので火傷をする。そういう訳でねっとりは苦手だ。それに対しホクホクは、あっさりした飽きのない甘さだ。また、熱々を食べても口の中にへばり付くことは滅多にないので、安心して食べられる。そういうことで、私はホクホク派なのだ。あぁ、懐かしきホクホク。また食べたいな。

 

 里芋は醤油ベースの汁に、人参などの根菜類と、秋が旬のキノコ類、そして葉物野菜や鶏肉とかと一緒に煮込んた奴が一番好きだ。煮込むと鶏肉から脂が出て、キノコと一緒に良い出汁を提供してくれる。里芋は小さい頃は苦手だったが、ホクホクしてるくせに噛んでるとねっとりした食感があって、それが今は美味しいと感じるようになった。私の地域では芋のこ汁というが、別の地域ではまた別の呼称があるようだった。具材もそれに伴って変わるらしい。恐らく元は同じだったであろう料理が、地域によって少しずつ違いが存在するのは面白い。一番美味しいのはどれなんだろうと気になってしまう。

 山芋はおろし器でゴシゴシ擦って、椀によそった白飯にかける。味付けは醤油でも良いが、そこに白だしを入れると少し上品な味と香りになる。ネギはマストだ。特に自然薯は最高だ。香りが強く味も濃い。書いてて食べたくなってきた。長芋も、同じように擦っても良いが、ステーキみたいに焼いて食べてみたことがある。割と美味しかった。薄く切って片栗粉をまぶして焼いたような気がする。味付けは鶏の照り焼きと同じだったはずだ。噛むとサクと噛み切ることができ、口の中でホクホクしていた。そしてソースの焦げが旨い。ヘルシーなのに美味しくてご飯が進んだので、結局ヘルシーの意味が無くなった日だった。

 

 そういえば、実家に帰った時に両親が家庭菜園としてジャガイモを作っていた。今年のことだ。その栽培が面白くて印象に残っている。大きいポテチの袋に土をいれて、その中でジャガイモを栽培していたのだ。袋の大きさは約40~50cmほど。どうやらそれはホームセンターで買った栽培キットのようだった。土もあり種芋もある。袋をプランター代わりにできるので、あと必要なのは水だけだ。終わったら袋は畳んで捨てられるし。これなら庭がないアパート暮らしの人でも栽培を楽しめる。なかなか良いアイデアの商品だと思った。水をやるだけで、新鮮な採れたてのジャガイモを食べられるようになるのだから。

 ところがどっこい、両親曰く、後日いざ収穫したところ、全くお芋は出来ていなかったようだ。土が悪かったのか、水やりが良くなかったのか、それとも日光か気温なのか。ジャガイモは小学生の頃に授業の一環で作ったことがある。記憶の中では大きいジャガイモが沢山取れた光景が浮かぶ。だから私は、植物が道路のコンクリを突き破って出てくるように、ポテチの袋を内側から破き、外へはみ出ざるを得ない、丸々と立派に成長したジャガイモが収穫出来るだろうと、そう予想していたのだが、それは夢想で終わってしまった。あの栽培キット事態が良くなかったのか?とも思ったが、まさかそんなものを商品にするわけも無い。きっと、たまたま色々な悪い要因が組み合わさって、不作となってしまっただけだ。来年こそは良いジャガイモが作れれば良いなと思ったが、両親がまたトライするかどうかは分からない。

 遊びもかねて、来年は自分で栽培してみようかなと、思ってみたりした。

 

 

 

今週のお題「こぼしたもの」 付属のスープ

 今週のお題は「こぼしたもの」だ。最近こぼしたものは何かあるだろうか。いや、特に思い浮かばない。ならば、「こぼした」の動作の主体を自分では無く自分以外にしてみてはどうだろうと考えてみた。

 ここで先日、中華屋で店員のおばちゃんが、私の頼んだ料理を置いていくときに、付属のスープを少しだけこぼしていったことを思い出した。そのとき店内はほぼ満席だった。家族連れ、仕事仲間、若い兄ちゃん達。私は一人、カウンターの隅っこで周りに背を向ける格好だった。店員のおばちゃんは忙しかったのか、料理を置いて行くには勢いが良すぎた。慣性の法則によりスープが器からこぼれたものの、被害がお盆の外へ拡大するこはなかった。

 だが、このことについて追求する気はないし、そもそも何とも思ってない。例えば、車の給油後に、ノズルから数滴が地面に落ちた、その程度だ。

 あと、これは私にとっては「こぼされたもの」になる。そこまで厳密な必要はなかろうが、つまり、書くにしては熱が湧かないのだ。何か良いネタはないだろうか。

 

今週のお題「こぼしたもの」

 

 「こぼす」。他の人の投稿を見て、何も物理的なものに縛られる必要は無いのだと分かった。愚痴とか、本音とか、目には見えないが実存するものも「こぼす」の対象になる。たしかに、「こぼす」は何も物だけに使用が限定されるわけじゃない。心にしまっておけず、つい口からでてしまう、そういうのも「こぼす」の対象になる。少し考えが足りなかったようだ。頭も固かった。こういうことがよくあるので、どうにかしたい。

 それにしても、だとしても、「こぼしたもの」は最近何かあるだろうか。やはり思い浮かばない。

 別に最近でなくてもいい。昔、学生時代とか。

 そう、学生時代に私は、人生においてとても大事な物をこぼしてしまった。それはもう元には戻らない。お盆にこぼした水が容器の中に戻らないように。または地面にこぼして吸われてしまったように。仮に戻したとしても、それは人々の常識的で倫理的な視点から考えて許されないように。なかったことにはできない。

 なんてこともない。

 本当はあるかもしれないが、こぼしたとしても認知できていないし、認知する前に、勘が働くということもある。主観的立場からすれば、その事象は私に認知された瞬間にはじめて、私にとって存在し事実となるのだ。だからそれが怖くて、気づかないふりをしている。のかもしれない。

 

 書くネタがなく曖昧な内容で終わろうとしている。

 もしもこのまま書くとするなら、こぼしたものは、時間とか、思い出とか、チャンスとか、アイデンティティーとか、なんかそういう、月曜日の前夜にさらっと書いて中身をつくるには、あまりにも不確かでぼんやりしてて恥ずかしいテーマだ。

 あまりにも字数が稼げないから、本題に入る前の冒頭の方が、まだ内容がある。

 もし、何かネタができたら追記しよう。

今週のお題「納豆」 納豆嫌いが毎晩納豆を食べた結果。

 子供の頃は嫌いだった。失礼を承知で言おう。まず、見るからに食い物では無いと判断できる(ホント失礼ですみません)。

 正方形をした白いパックの中に、向こう側が透けるほど薄いシルクの様なシートを上から被り、そいつは真ん中に鎮座している。この段階はまだセーフだ。だが奴は、その整ったパッキングからは想像できないような、とてつもない糸と粘りを隠し持っていた。

 それは、上にかかっているシートをとった瞬間に分かる。食って良いのかと判断に迷う見事な「粘り」。そしてちょっとクサい。シートを捨てたいが、粘りがどこまでも続く。普通なら切れるであろう細さになっても、よぉく見るとまだ糸が頑張っている。その糸がとてつもないヌルヌルを伴っていることは言うまでも無い。箸で切ろうとしても今度は箸にくっついて、また糸が意図せず伸びる。

 本体をかき混ぜた場合はこの比ではない。信じられんくらいの糸と粘りが飽和し、プクプクとした泡ができる。どうして糸と粘りが泡になるのか。訳が分からないので、子供の頃の私にはちょっとしたホラーだった。

 子供は何でもよく食べた方が良いのは分かる。しかし、幼いながらに私は本気で訴えた。「納豆はいけません」と。マジ勘弁して下さい感が伝わったのだろう。「好き嫌いをするな」という親の教育方針であったが納豆については許してもらえた。なので私は納豆と縁の無いお子様でいられた。

 そんな私が社会人になり、納豆を毎晩食べるようになったのだが、その効果が半端ない。もちろん気のせいかもしれない。だが気のせいにしてこの感激を無いものにするのは少しためらわれる。なのでここに記します。

 

今週のお題「納豆」

 

 冒頭でも述べたが、納豆を食べるメリットは半端じゃない。少し興奮できるほどだ。私は今後一生納豆を食べる所存だ。だって食べない理由がないのだ。健康になるし、安いし。

 納豆が嫌いな人の気持ちは痛いほど分かる。たしかに、見た目と食感と匂いと粘りと糸はヤバい。だが、動物にはある程度の不快に対して、馴れるという順応が働き、生きる上での無駄なストレスを軽減する優れた能力がある。なので、納豆が嫌いだった過去の自分と苦手な人にはこうアドバイスしたい。馴れるまで我慢して食え。

 この世は格差社会だ。納豆を選択せずに、他の食材で納豆から得られる栄養をカバーできる人も沢山いるだろう。むしろ、その人達は納豆を食べる人よりももっと良い栄養と効能を得ているかもしれない。だが、私のような平凡な人間には、納豆を食えと、声を大にして言いたい。あれだけ安くて体に良い食材なんて、なかなか無いからだ。もし、納豆より安くて栄養がある食材を知っている博学でインテリな方がいらっしゃるのなら教えていただきたいところだ。良質なタンパク質と脂質、食物繊維、そして納豆特有の納豆菌やナットウキナーゼはなんかよく分からんが体に良さそうだ。このような体の機能を整えてくれる食材が低価格で手に入るというのに、それを見た目と食感と匂いと粘りと糸で、選択肢から外すとは。愚か極まりない行為ではないか。

 納豆の素晴らしさを書けることに感謝し、納豆を食べたことによって私の体に起きた変化かつ食べるメリットを書いていく。まぁ、ネットで調べればわんさかでてくるありふれた内容だが。

 

 1つめ 肌が綺麗になる。

 今では当たり前になりつつある男のスキンケア。とはいえ女性に比べたらその意識は低いだろう。鏡で自分の肌の状態をチェックとか、そういうことはしていない。しかし、納豆を食べて1ヶ月、そんな風に特別肌を観察するわけではない私だが、ある日顔を洗うときにあれ?と気づいた。なんか肌が綺麗になってないかと。具体的にどう変化したかは分からないが、なんか肌が綺麗になった気がした(説得力が無くて申し訳ない)。

 原因は納豆では無いかもしれない。夏が終わって紫外線は減ったろうし、仕事のストレスが最近減ったし、そういうのかもしれない。だが、顔の皮脂が減ったような、少し凹凸が減ったような、そんな気がした。思い当たる原因を考えたが、私生活では納豆以外にコレと言った原因が思い浮かばない。

 これが事実にしろそうでないにしろ、こういうので大事なのは、自分がそう思えるかどうかだ。もし事実なら、文句なしに喜べる良い事だ。自信が持てるだろう。仮に、実は変化が無かったとしても、自分が自分の肌が綺麗になったと思えれば、それによって自信が持てるかもしれない。だったらそれはそれで良いじゃないか。

 そんな訳で無理矢理だが、納豆の効能1つめは肌が綺麗になるだ。

 

 2つめ お通じが良い。

 便秘を経験したことがある。なんか腹に詰まっている。体が重い。腹が張る。実に不快だ。当たり前だ。なぜならお前の腹の中には大量のク○が詰まってるんだからな。つまり、図らずとも自家製ウインナーを作ってしまった時は、体調も気分もすこぶるよろしくないということだ。

 本来排出されるべき人間の消化物のなれの果て。うん○。水分も栄養も人間が生きるために必要なものが吸い取られもう用済みとなった、本来感謝すべきだができれば早くお別れしたい奴。便秘中は腹が張ってて苦しいから、食事が思い切り楽しめないし、屁が臭くなる(下品ですみません)。多くの人類が悩んでいる身体サイクルの不調だ。

 社会人になってからは、しょっちゅう便秘に悩んでたとかそういうわけでは無いが、納豆を食べるようになって、腸の動きが良くなった気がする。いや、気がするじゃなくて良くなった、と言いきれる。食物繊維と植物性の脂質のおかげか、納豆菌やナットウキナーゼとかいうイマイチよく分からん有難そうな奴らのおかげかは定かで無いが、明らかにお通じが良い。1つめで紹介した、肌が綺麗になったというのは腸が良くなったからかもしれない。体のサイクルが整ったようで気分も良い。コロナが流行ってから免疫云々、そのためには腸が大事だ云々と言われている。いまこそ日本人は納豆食べるべきだと、私はここに声明を発す。

 

 3つめ 筋肉がつく。

 完全な主観だが、なんか筋肉の付きが良くなった気がした。特に力こぶの部分。めっちゃカットがでるようになった。人間の体はそんな簡単には変わらないことくらいは、粗末でおよそトレーニーを自称できないような、細い体だが筋トレ歴は10年の私でも知っている。だから、気のせいの可能性も十分にある。でも、「あれ、変わったな。」と感じた。最近扱える重量も増えたし、でかくなったような気がするし、なによりカットが出た。おかげで上腕二頭筋に煮卵が付いてるような見た目になった。しかも日に日にハッキリしてきている。これも1つめの肌の件と一緒だ。変化が無いよりは全然良いだということだ。努力で大事なのは変化の実感だ。おかげで努力にさらに身が入り成果が出やすくなってしまえば、勘違いから生まれた成長サイクルの出来上がりだ。だから私はこれからも納豆信じ、納豆を食す。もし筋トレしてて納豆を食ってない人がいたら、納豆を食べてみて欲しい。効果は保証する。もしも効果がなかったらごめん。

 そんなわけで、3つめの納豆の効能は、筋肉がつく、だ。

 

 たった3つの効能を、しかも真実か否か判断つきづらいものを、ダラダラともったいぶって書いてしまった。でも、これだけ書きたくなるくらい、私の納豆に対する感激は大きかったのだ。食ってない人には強く勧める。

 ちなみに、私は相変わらずあの切れそうで切れない糸がうっとうしく苦手なので、熱々の汁物を食べる前に食すことにしている。あのネバネバは熱に弱いのか、箸を熱い液体でまとうと、糸がたやすく切れる。同じようにヌルヌルした口の中も、熱い汁物でサッパリさせることが出来る。口周りについたのは、ティッシュで拭くしかないかな。

 

 さっきも納豆を食べたばかりだ。馴れると割と味も良い。だから、「納豆嫌いだけど納豆食べられるようになりたい」と言う人は、我慢して食べ続けてみて欲しい。ことわざでもあるだろう。良薬は口に苦しだ。きっと好きになる。最近はスーパーの納豆を全種類制覇しようとしているところで、食べた限りでは、熊のイラストがついた味噌タレの納豆と、わさびタレのついた納豆が美味しかった気がする。なので、それを食べてみても良いかもしれない。

 

 そんなわけで、納豆を食べたら起きた結果でした。あなたも納豆ライフで幸あれ。

今週のお題「急に寒いやん」 けど寒いのも好きやで

 きっと関西弁になるくらい、ツッコみたくなるくらい、この人は寒かったんだろうな。今週のお題を見てまずそう思った。

 「急に寒いやん」という今週のお題

 予想も付かない速さで寒くなりよったわい、ということについては、私も同感なので心中お察しできる。

 

 「なんでやねん!急に寒いやん笑!」という勢いと元気さから生まれた「寒いやん」なら良いけれど、「・・・寒いやん。。。」という、急な寒さに対する苛立ちと嫌悪をから生まれた積年の恨みの如き感情を持つ「寒いやん」だったら、少し可哀想だなと思った。そして余計なお世話とはこういう時に使うのだなとも思った。

 

ーーー 今週のお題「急に寒いやん」

 

 

 吐く息が白くなるのはまだ先だろう。太陽は相変わらず皮膚を刺すような強さで降り注いでいる。

 しかし空気は涼しく風は冷たくなった。十五夜が終わり、彼岸も終わり、およそ日本の秋の行事は終わったような気がする。暑い暑いと言っていたら、いつの間にかこんな様子だ。9月はあっという間だった。いつの間にか、神様達が島根で会議をする時期になっている。そういえば、どうか素敵なご縁をくださいとお願いするのを忘れてた。ススキがフワフワとした穂を出して、ススキらしい見た目になって久しい。

 

 私は北東北に住んでいる。この前実家に帰る途中、峠にさしかかった時のことだ。寒そうだなと思いながら、道路の脇に立ってある電光掲示板をチラリと見た。気温は10度を下回っていた。いくら何でも寒すぎる。しかし、標高の高いところは、この季節にはその位にはなるのだ。

 それに、更に北には北海道先輩がいる。同じ北国である。先輩を差し置いて「うち寒くてぇ笑」などとはいえない。そんなこと言語道断だ。我が県が破門される。

 そんなバカなことを考えながら、運転していたら足先が寒くなった。暖房をつけようか迷った。

 

 たしかに、急に寒くなったなと思う。寒くなること、冬がくることを嫌悪する人間は多い。しかし個人的な感想として、寒くなることは悪いことばかりじゃないと思っている。

 

 私は「自然」と「国民行事」が好きだ。自然は季節そのもので、その移ろいを色濃く反映する変化が綺麗だし、日本の国民行事も季節ごとに多様な催しをするから私は勝手に楽しくそれを見聞きし時に参加する。これらがしみじみと時の経過を味わわせてくれる。

 

 冒頭でも述べたが、秋には秋の自然が見られる。

 ススキが穂を出したり、コスモスが咲いたり、そういえばこの前はリンドウも咲いていた。自然のなかでリンドウを見たのは初めてだったので、少し感動した。

 山に入ればキノコが出ている。キノコも色んな種類があるが、個人的に見て楽しいのは小さなキノコだ。倒木などに苔が生えていることはよくあり、そこにキノコが生えてることもよくある。顔を近づけると苔は綺麗なモスグリーンをしている。その上に小さなキノコが、傘を控えめに広げてスッと立っている。柄の細さは削り立ての鉛筆で線を引いたようで、傘は薄く、膜が太陽の光を通しそうだ。その小さく繊細な世界は、私達人間の世界では感じづらい。小さくても確かに存在し、生命を感じる。ジブリピクミンにありそうな世界観だ。ついつい見てしまう。人の目が気になる質なので、人が居る場所では上手く楽しめないのが少し辛い。見て良し食べて良しの山の幸。

 山の幸と言えば他にも、ヤマブドウアケビやサルナシなどが実る。人も美味しくいただけるし、山の動物達の食糧にもなる。ドングリやクリもそうだな。あれらは見るだけでテンションが上がる。

 もう少し寒くなれば紅葉で山は色彩豊かになり、その美しさをこの目で見ようとする観光客が、京都の嵐山などの各名所に集まるだろう。去年は上手く色づかない所が多かった様な気がする。上手く色づかないのは朝晩に気温がしっかりと下がらないせいだ。だが急に寒くなったこの頃だ。この調子なら、今年は綺麗にいきそうだ。

 田んぼを見れば米が実り、黄金色に輝いている。成長するほどに深く頭を垂れていく米を見ると、今年も豊作で良かったと思ってしまう。この反応をする日本人は多いのではないだろうか。私はDNAレベルで刻まれているものだと勝手に思っている。

 

 植物やキノコだけではない。虫や動物からも季節の移ろいは感じる。

 

 スズムシやコオロギなど、求愛の手段に羽をこすり合せて音を出す虫が秋には多い。そしてその音は美しい。だから古くから日本人に親しまれていた。江戸時代には「虫売り」という、今で言うペットショップ的な商いが存在していたらしい。

 もう少しすれば、雀がモコモコと膨らむ可愛い見た目になるだろう。あれは冬毛ではなく、羽毛に空気を入れて膨らまし、体温を維持しているのだ。

 一方、哺乳系(哺乳系?)の動物達は冬の支度として、体毛は冬毛に変わる。野生動物なら、寒い冬を乗り切るためにせっせとエサを食べ、脂肪を蓄えることに忙しい。そしてこの時期は熊がヤバい(彼らは年中ヤバいが)ので山に行く人はご留意下さい。

 

 暦では72候の「虫隠れて戸をふさぐ」が過ぎた。そのことから分かるように、自然も人間も冬の支度を始める頃なのだろう。

 

 暑さ寒さも彼岸まで。春の彼岸は寒さの終わりで、秋の彼岸は暑さの終わりだ。田んぼは収穫の時期に入り、束ねられた稲は秋の太陽の下に干されている。

 衣替えがあって、長袖の人が増えた。寒さに負けじと半袖短パンの小学生もいるが、多くの人間は10月を境に冬に向けて身辺を整理したり生活に変化がでたりする。

 冬服を出す、毛布を出す、湯船に浸かるようになる。ショウガを食べる、辛い物を食べる、鍋物を食べる。ストーブを手入れせずに放置していた人は掃除をしなければならない。毛布はカビが心配だ。寒くなってきてはいるが、できれば、コタツやストーブやホットカーペットなどは11月まで我慢したいところだ。ならば着込めばいいやと思った。しかし、ユニクロヒートテックはどこにやったっけか?

 

 たしかに寒くなった。急な変化で動揺したが、秋であることを考えればこれくらいの寒さが普通かもしれない。ブレーキをかけずに気温が下がり続けてしまうこととと、ブレーキをかけすぎてこれ以上寒くならない、なんてことにならなければ良いなと思う。ちゃんと秋があって、ちゃんと冬になって欲しい。そしてちゃんと春が来る。地球温暖化と異常気象、この2つが聞き慣れた言葉になってしまった現代では、難しいことなのかもしれないが。

 日本には四季があって欲しい。

 できるだけ緩やかに、しかしハッキリと、気温よ下がれ。

今週のお題「夢」 浮遊と綺麗な景色とジャックバウアー

今週のお題「夢」

 

 夢。

 睡眠中に脳が活動し、意識はないのに起きて実際に活動しているかのような事象を感じてしまうもの。それは時に支離滅裂で、時に現実かと間違うほどリアルなで、時に奇想天外な、未だに謎が多い生物に備わるプログラムだ。

 場合によっては予知夢を見る、なんて人も居るらしい。

 

 そんな身近で不思議な夢だが、誰しも見たい夢と見たくない夢というのがあるだろう。

 

 見たくない夢は、まぁ怖い夢だろう。具体的な記述はしたくない。思い出したくないし、ここに書いたことで変に意識してしまって、今日寝たら見ちゃうかもしれないから。

 

 なので見たい夢を書こう。具体的な記述は遠慮無くしていく。本当に素敵な夢は何度思い出しても良いものだし、ここに書いたことで脳が意識して、今日寝たら見ることが出来るかもしれない。

 

 しかし、夢はその人の普段考えていることや性格を表すともいわれている。

 

 開けっぴろげに書いて、他人様に見せられない自分の一面を見せて、恥ずかしい思いをする、なんてことはしたくない。

 

 今、良い夢と考えて思い浮かんだのは4つだ。うち、2つは他人様に見せるには少々恥ずかしい内容だ。残った2つについて書こう。

 

 1つめは空を飛ぶ夢だ。

 幼稚な夢かもしれないが、人類はライト兄弟を皮切りに空へのロマンを実現して来た(だから幼稚でも恥ずかしくないと自分言い聞かせることにする)。

 純粋な空へのロマンは、科学が進歩するにつれ、いつしか利益の追求に取って代わられた。だが、おかげで技術は成長し、いまや誰もがそれなりのお金を払えば空の旅を楽しむことができる時代になった。

 

 いつか、空はもっと身近な存在になるかもしれない。

 

 そして私の夢はそれを実現し、私に経験させてくれた。

 

 浮けと念じれば浮くのだ(夢の、夢の話です)。

 他人の夢がどんなものかは分からないが、空を飛ぶ夢は今でもその感覚を覚えている。その感覚は体を動かす感覚に近かった。

 例えば、手を握ろうとすれば手を握ることができる。この時、脳から神経に電気信号が送られ、それにより筋肉が収縮し手を握ることが出来るが、そこまでの感覚は知覚できない。それでも私達の体は思ったとおり、イメージしたとおりに動く。

 そんな感じで体が浮いたのだ。さらにそんな感じで縦横無尽に動くことができた。

 

 最初は浮いた。楽しくてもっと浮くことにした。遠くに高いビルがあったのでそこまで行こうと、前に進もうとイメージしたら進むことができた。空気をきって移動するのだがそれが気持ち良い。知らない人達と飛んでたのだが、何故か夢の中では知り合いのようだった(夢だからね!)。

 

 で、まぁその後も飛んだりして遊んだわけだ。楽しさのレベルでは、ネズミの国のアトラクションに乗るより楽しいと言っておこう。だって空飛べるんだもんね。

 

 

 2つめは見たことも無い幻想的な世界で生活していたことだ。

 これは楽しいとかそういうんじゃなく、感動があった。

 美しい自然を見たときに感動する人は多いと思う。そしてあまりにも感動すると、言葉が出なくなるのだ。人間が作った言葉という記号では、それを表すこともそれに追いつくことも出来ない。できるのは、地球がくれたこの肉体で、五感という感覚を用いてただただ目の前の自然を感じることだけだ。いや、周囲360度全方向だ。そしてそれで十分なのだ。

 この感覚を初めて知ったのは、大学の部活で登山をし、早朝に山頂で雲海を目にしたときだ。

 空は近いのに何処までも上へ続いていて、澄んだ水色が頭上を覆う。この先に宇宙があるんだなと腑に落ちるような、そのくらい澄んでいてどこまでも奥行きがあった。神秘的な感情が湧いた。

 そして下には、太陽の光を浴びた真っ白い雲が大地のように広がっていた。それは触れそうなくらいハッキリと濃く、だけどくすんだりはしていない、綺麗な白色をしていた。一方反対側は雲が無く、遙か下方に森があり、その向こうには町が見えた。ビルや高層マンションだろうか、灰色を主体としてたまに木々の緑が映えるなか、ポツポツとかすかな立体感がある。どこか知らない星に来ているような気分だった。

 

 そんな美しい風景を目にした時に抱く感情は、現実ではなかなか出会えない。しかし夢では出会えるのである。しかも布団の中で。夢ってすごいな。

 

 見た夢の中でとりわけ感動があったのは2つだ。

 ただ、感動は覚えてるのに細かい所が思い出せない。まぁ夢とはそういうものだが。だがあまりにも美しい風景だった。それは覚えている。しかしそれが余計に悔しさを増幅させる。思い出したいZE!ぬぬぬ。。。

 

 1つめは、青い膜(?)が頭上に広がってた町(?)のような所の景色だ。

 そこにいたのでたぶん住んでたんだろう。その町は壺のような立体的な空間だった。文明はそこまで進んでいない。建物の窓は四角い穴があるだけでガラスなどの外と中を遮断できたりする物は無かった。レンガのようなコンクリートのような物は存在していた。色は白とクリーム色の中間。それで建物が作られていた。高層建築物は見当たらない。屋根は傾斜が付けられておらず、直方体のような見た目の建物ばかりで統一感があった。

 壺状なので上はすぼまっている。その壺の入り口に青い膜があった。空では無い。膜の外には地上があってその上に空がある気がした。膜は液体のような感じもした。その膜を通って光が差すので、町全体は青っぽい光で照らされている。学生の頃、体育の時間に入ったプールの水中が水色だったが、あの色に似ている。ような気がする。町の中には所々に木が生えていた。

 

 っていうね、それだけです。

 

 2つめは、雲から突き出るほど標高が高くいところにある町のアパートから見た景色だ。

 その時は夜だったのだが、なにせ雲よりも高いところにある町なので常に月光に照らされている。その時は満月だったので街灯がいらないのではないかと思うほど、夜なのに明るかった。月も心なしか大きく見える。ものすごく高く大きな台地の上にある町みたいだった。私が住んでるアパートは町の中でも結構端っこにあり、アパートからは道路が雲のしたに続いているのが見えた。チャリンコを漕いでるおっさんも見えた。その時はとてもリラックスして、窓辺に肘をかけて、綺麗だなぁーと重いながらボーッとしていた。

 

 っていうね、それだけです。

 

 夢って本当におちがない。書いててこれ面白いのか?面白くはないなと思った。

 人によってはオチのある夢もあるのかもしれないが、少なくとも私はそういうのはない。一般的に、映画か何かのワンシーンを切り取ったかのようなものが夢には多いと聞いている。断片的なものといった方が分かりやすいか。

 たまにストーリーちっくで奇想天外でアクション映画みたいな夢も見るが、書くのが大変なので止めておく。けど少しだけ書く。ある夢では、バイオハザードっぽい世界のなかにいて、建物はぼろぼろで所々火災が発生し、夜なのに明るかった。私が立ってるとドリフトしながらワゴン車が目の前に止まった。運転席の扉が開く。するとそこにはちょい悪風のジャックバウアーみたいなおっさんがいた。以降彼をジャックと呼ばせていただく。彼は顔をクイッとして一言、「さぁ、乗るんだ!」日本語だった笑。とても真剣な目をされていた。そして私、「ありがとよ!」笑。そしてなんやかんやと二人はクリーチャーと闘ったり体育館を爆走したり踏切は一時停止をちゃんと守ったりした。私は起きて爆笑した。

 だが長編映画を一本見たような満足感があった。夢で見る化け物は大抵怖いはずなのに、ジャックが居てくれたおかげか恐怖は感じなかった。この危機をジャックと切り抜けなくては!と普段の私からは想像できない勇気ある気持ちで夢の中にいた。ネズミの国のアトラクションより楽しかった笑。

 

 現代の科学をもってしても解明しきれない、一体どうして、なんのために見るのか分からない、私達にとって一番身近な不思議な存在である夢。

 それは、あり得ないよと他人に話したら笑われそうな、何言ってんだこいつと頭を疑われそうな、しかしだからこそ、時に美しく時に面白い、忘れられない経験をさせてくれる魅力的な存在でもある。

 

 どうか皆が良い夢を見れるよう、そして私はまたジャックと会って冒険できるよう願って床に就くことにします。ここまで読んで下さりありがとうございました。読み返しはしてないので誤字はお許し下さい。グッドナイト。

 

6時起き宣言備忘録

 「私は今週、規律と丁寧さに生活を捧げようと思う」

 

 最近読んだ小説が面白かったのでそれの主人公のセリフを真似し、LINEで友人にそう宣言した。

 

 

 あるところに押し入れがあった。ずっと家主に整頓したいなと思われつつ、めんどくさいから後回しにしようと、回しに回し続けられた押し入れがあった。回された回数は60回にも及ぶ。

 もはや何が押し入っているのか家主の私ですら分からない。魔窟と言えよう押し入れであったが、この度遂に整理するに至った。

 綺麗に整頓し、やりきったぞという達成感がすさまじく、「整った暮らしとはなんて気持ちの良いものなのだ」と、やった仕事に不釣り合いすぎる大げさな感想を抱いて気を良くした。

 さらにさらに、自身が整った人間になれればなおより良いことだろうと思ってしまった。そして日常の振る舞いを規律あるもの丁寧なものに変えれば人間性も変わり、整った人間になれるもんじゃないかね?と思ってしまった。

 

 で、宣言に至った。

 

 

 規律と丁寧さに生活を捧げる。簡単に言えばがさつな行動をしないということだ。

 

 ではどんな行動ががさつなのか。これからどんな行動をするのか。

 たとえば、当たり前の行動だけど、意識しないとできないことってのが、ありますでしょう?

 

 靴を脱いだら履き物を揃えるとか、使った物は元の場所に戻すとか、物を置くときは投げないとか、洗い物はためないとか、扉は脚で開けないとか、挨拶は人の目を見て言うとか、店員さんにはありがとうございますと感謝の祝詞を述べて一緒に踊るとか、その他諸々エトセトラ。

 

 そういうのを意識したいなと思ったのだ。少し手間ではあるがやってやれないことはない。

 

 問題は最後に「毎朝6時起きして散歩とコールドシャワーをします!」と宣言してしまったことだ。

 

 私は8時間寝ないと脳みそが死ぬし朝から冷たい水で皮膚を刺激すると心臓が止まる。

 

 にもかかわらず宣言してしまったのは、押し入れを整理して気が大きくなってたからだなぁ。

 

 押し入れの整理如きで気を大きくする私である。熱しやすく冷めやすいという言葉があるように膨れやすく萎みやすいという言葉もきっとあるはずだ。

 

 その言葉通りその2時間後に宣言を取り消したくなった。前言撤回だ。

 しかし既に宣言してしまったので急に取り消すというのもかっこ悪い。

 

 宣言の良いところはこうして自分を追い込めるところだ。一方悪いところは目の前がが崖なのに進まざるを得ないことだ。メリットとデメリットは表裏一体なのだなと、この世の森羅万象の一端の末端に触れた気がして私は悟った。私のせいでこの世界の悟りの概念が少し残念なものになったかもしれない。

 

 結論、私は頑張って6時起きと散歩とコールドシャワーを実践することにした。ちなみに友人には毎朝実績報告を行なうこととなった。

 

 以上が今週の日曜日の夜のことだった。

 

 実績を記録する。

 月曜日

 六時起き 達成

 散歩   達成

 シャワー 達成

 

 火曜日

 六時起き 8分寝坊したがまぁ達成

 散歩   達成

 シャワー 達成

 備考 午後6時を過ぎると一気に頭が回らなくなる

 

 水曜日 

 六時起き 8分寝坊したがまぁ達成

 散歩   達成

 シャワー 達成

 備考 定時頃から頭が頭痛で痛いという症状に襲われる

 

 木曜日

 雨降ってて、寝坊し散歩中止のうえ二度寝

 

 とまぁこんな感じだった(金曜は前日寝るのが遅くなったので無し)。続いたのは3日だけだ。

 

 私は行動について、やるやらないが割とはっきりしてる質だ。

 

 宣言してもやらないときは1日目からやらないし、やるときは割と継続できる。

 なので三日坊主という言葉の意味がイマイチ分からなかったのだが、よもやこのような状況で理解することになろうとは。三日坊主になる人間の心理状況は、やらない9割、やらなければならない1割、といったところか。「やりたくない」ではなく「やらない」で、「やりたい」ではなく「やらなければならない」なのだ。より強い否定とより消極的なやる気が9:1の状況になると、人間は3日しか活動できないようだった。

 

 三日しか続かなかった悔しさよりも、三日坊主という言葉の意味を身を持って腹に落とせたことへの不思議な満足感がある。私は満足感を覚える軸が常人と比べて変わってるんだなと思った。今更か。

 

 三日しか続かなかったが、散歩もシャワーも割と気持ち良いものだった。

 

 この時期はだいぶ太陽が低くなって光が柔らかくなる。夏の太陽の光は無色透明だが、この時期からは少しずつオレンジがかる。主観だけど。

 

 近くに河川があるのでそこを散歩した。朝なので静かで、人間の生活音に囲まれた時間しか生きていない私にはそれは新鮮だった。風と川の流れる音が際立つ。足下からは秋の虫の音が聞こえる。吹く風は少し肌寒い。なんかえもい。

 

 川の向こうには視界いっぱいに山が連なっているのだが、朝の霧がそれにかかり幻想的な景色を作っていた。静寂と光と自然と、普段感じない刺激に五感が喜んでいる。様な気がする。

 

 静寂のなか自然を一杯に感じながらスタスタ歩いた。静寂のなか、自分の足跡が一定のリズムで聞こえるのがなんか面白い。静寂って何回言ってんだ。

 

 わんこ散歩おじさんに挨拶し、散歩のついでにゴミ出しもした。

 最近、ここの住人はゴミをちゃんと奧にいれるようにしているみたいだ。良きことだ。

 手前に置かれると次の人が困るので、そういう時は私がゴミ置き場の中に上半身を入れて、キレながら奧に移動させたりしていた(自画自賛したい。)。

 または私の代わりの人間がでてきたのかもしれない。それだったら気の毒だな。私は助かるが。

 

 皆が少し配慮するだけで、この世は上手く回るんや。とかありきたりなことを考えたりしてアパートに戻る。

 

 そのあとはシャワーを浴びるが、冷たいと死ぬので少し暖かめだ。それでも目は冴えるので十分意味はあるはずだ。時間には余裕がある。ゆったり朝飯を準備し食べた。間に合わないこともあったが、できる限り「いただきます」の挨拶は忘れないようにしている。

 

 時間があったので本を読んだ。いつもより沢山読めるのが嬉しい。

 ふだんづかいの倫理学というやつだ。夜は小説、朝は小説以外の本を読むことにしている。面白くて分かりやすい。この本は日常に倫理学を使える様になることを狙って書かれており、そこに興味を惹かれた。

 だって使えない知識を頭に入れてもねぇ。

 部屋も頭もものは少ない方が良い。世はまさにミニマリスト時代である。決して私の脳のキャパの問題では無い。

 

 出勤前に植物に水をやる。今育てているのは3体で、月花美人(多肉植物)、ガジュマル(木)、象牙丸(サボテン)だ。サボテンは購入して2年目で、体はまだ小さい。しかしなんと、つぼみができているのだ!花を咲かせてくれるみたいだ。何色なのか、どんな花が咲くのか。楽しみである。

 

 こんな風に振り返ると、早起きも悪くなかったな思う。

 

 死ぬほど眠かったが。

 

 あと夕方一気に疲れるところもキツい。

 しかし朝に余裕をもって行動できるというのはなかなか気分が良いものだ。

 

 成功者は朝を大事にするというが、少しだけその気持ちが分かった様な気がする。

 ずばり、気持ち良いことが増えるからだ!キツいことも増えるがな!

 

 これを書いてる間にすっかり夜中になってしまったが、明日の朝も6時起きをしてやる。

 

 この挑戦も一応明日までなのでな。

 やりきれよ自分。

 

追記

無事にやりきりました。きっともうしません。

大乱凡粗雑記

 今週のお題を書こうとしたが、書ける人が限られるであろうお題であり、それに大して社会経験の乏しい私は当然書ける側であるわけが無く、かといってブログに書けるような面白エピソードも持っているわけでも無く、さてどうしようかと両親の結婚記念日で私ように取っておいてくれたケーキをつまみながら思案している。

 

 殴り書きだ。殴り書き。

 

 何を書きたいかなんて決まってないので思いつきのまま書いてやるぜ。

 

 書くと決めたら書くのである。

 

 ケーキは既に収まるべき所に収まった。今の私の集中力削ぐものなど、何も無い。

強いていえば金曜ロードショーで放映中のコナン君だけだ。妹がつけっぱにしたのを流れで母親が見ている。そして私も見ている。

 

 別に気になんてならないさ。キュラソーがやられそうだからって気を取られたりなんかしないぜ。意識しないようにすればするほどテレビの音声が耳を通して頭の中に入ってくるなんてことはないんだぜ。

 

 

 最近、バイク乗ってないな。

 本もあまり読めてない。

 料理もしてないし、アパートの部屋も整理できないな。

 服も買ってない。寒くなってきたのでジャケットが軽くはおれるジャケットが欲しい。

 髪も切らなければ。

 大学時代の友人にも会えてない。お互い仕事が忙しいし、土日はそれはそれで予定が埋まってしまうのだ。

 仕事の企画立案もあった。ちくせう。

 水道と電気料金払ってなかったのを思い出した。さっさとやらねば督促状が来る。

 

 コナン君が逃げろと言っている。クライマックスが近い。珍しく蘭の姉貴は巻き込まれてないみたいだ。

 

 トイレのトイレットペーパーを固定する奴(なんて言うんだろう?)、ネジが外れたから締め直さないと。

 床にこぼした小麦粉がフローリングの隙間に入ったのでそれもかき出して綺麗にしなければ。

 

 キュラソーがつぶされた。。。泣

 

 頭の幾らかの思考リソースはテレビに乗っ取られたが、最近やってないことをつらつら書いてみた。

 

 書きだして思った。なんてつまらないのだ。

 なんというか、小さい。悩みがこれか?もっとあるだろう。

 

 ふと、書きだした悩みをもとに今の自分を定義するとどうなるのだろうと思った。

 

 趣味のバイクと読書ができず、自炊も部屋の掃除もせず、良い年をして服がなく髪も切らない身だしなみに無頓着で、仕事が忙しく友人に会う気力と時間が無く、要領よく仕事ができず怠惰に打ち勝てず公共料金の支払いも遅れた男。

 

 利己的な遺伝子という本をご存じか。

 その本による必要も無いだろうが、なんとも魅力が無い男であると再認識したくもないことを再認識してしまった。

 

 本日睡眠不足なのである。

 頭が働かないのである。

 さらに先ほど親父どんと日本酒を何杯かやった後なのである。

 

 万が一にも、暇つぶしになるかとここまで読んで下さった方がいるかもしれない。

 クソつまらん駄文でありましたことをご容赦ください。

 

 そして私は寝ます。