我が実家では正月の鏡餅に一定程度の気合いが見受けられる。とはいってもそれが意図した気合いの入りようなのか、何かの事象がきっかけでその延長上で仕方なく気合いを入れているように見えるのか、その心情的な部分までは分からない。今年も残り僅かとなった。今週のお題は「餅」だし、我が家の正月のお餅事情とかについて書こうと思う。
今週のお題「餅」
我が実家では正月の鏡餅に一定程度の気合いが見受けられる。この令和の時代にわざわざ鏡餅を手作りするからである。この時期になればどこのお店も正月商戦を繰り広げている。さらに、クリスマスも目前なのでクリスマス商戦も展開中という混戦ぶりだ。そんな混戦の中でも、来店者の眼にとまりやすい一角には必ずといって良いほどパックに包まれた二段姿の鏡餅が陣取っているではないか。パッキング故に汚れないし、保存が利くし、何よりお正月の鏡餅が買うだけで準備できてしまう。便利だ。江戸時代の江戸っ子が見たら「そんな物みたいな餅で正月を迎えるなんて粋じゃねぇ!」と喝を入れられそうだが、忙しい現代人には有難いことこの上ない。見事に現代の消費者の心を射止めている。どこの戦場(お店)に赴いても鏡餅将軍(鏡餅)が見事な存在感を発しているのはそういうことなのだろう。そしてその需要の高さから窺えるのは、もう鏡餅を手作りする人なんておらず、鏡餅は製品として、出来上がった物を買うのが現代の正月の主流なのだろう、ということだ。
しかし、そのような現代においても既製品を買わずに鏡餅を自宅で作り準備する世帯もある。それがうちだ。このような時代でも既製品に頼らず、めでたい正月のために自宅で鏡餅を手作りする。我が実家ではこの忙しい浮き世にも萎れずに、鏡餅を手作りするという信念を貫いているのだ。江戸っ子が私達を見たら、「粋だねぇ!」と褒めてくれるかもしれない。
去年の年末も、実家に帰ったときに家族で鏡餅を作ったものだ。スーパーで餅米を買い、餅米を洗う。餅米はしっかりと水分を吸わせなければならないので、餅をつく前日には水を張ったボウルに浸け置く。そして翌日に餅つき器にいれる。うむ、ここまで書いて指が止まった。そういえば、「手作り」と言ったが、よく考えれば餅つき器を使っているではないか。思い切り機械頼りである。もしかしたら手作りとは言えないかもしれない。となると江戸っ子に褒められる事は無さそうだ。むしろ裏切り者として物理的に心を射止められるかもしれない。とはいえ、この時代に既製品に頼らず、わざわざスーパーで高い餅米を買って、自宅でこねて、手作業で一つ一つ鏡餅を成形してゆくのだ、一定程度の気合いの入りようは認めてもらえるだろう。
そもそも何故我が実家が鏡餅をわざわざ手作りするのかというと、数年前に親戚の農家から餅米を大量に貰ったことがきかっけだ。「大量」というあたりが農家の親戚あるあるだ。とても1年で消費できる量ではない。正月に鏡餅として利用するにしても、3年は持つかもしれなかった。それくらいの量だった。そして困ったことに、実はその時、我が実家は餅つき器を持っていなかった。そう、既製品で済ませていたのである。故に困った。一体どうやってこの餅米を消費すれば良いのか。案としてはお裾分けも考えたが、いかんせん量が多いし、第一貰った側もどう処理すれば良いのか分からず困るだろう。
そのような苦悩(?)の末、父は買ってきたのだ、餅つき器を。事前に母に相談があったのかどうかは覚えていない。しかし、気になった物を買ってきて物を増やしがちな父と、あまり物は増やさずモデルハウスのような雰囲気にしたい母なので、おそらく餅つき器について母は「どこに置くんだ、、、」という思いがあったはずだ。大きさについては少々置くスペースに困る程度、と言っておこう。
しかし、おかげで餅米消費の目処がつき、結果3年で消費仕切ることができた。全て正月の鏡餅となったのだ。そして必然的に行き着く次の問題が、「餅米が無くなったが、この餅つき器をどうするか」というものである。
正直、既製品で事足りるのだ。だから、わざわざ手間とお金をかけて餅つき器を活用するために餅米を買ってくるメリットはほぼない。ところが、わざわざ買ってきた餅つき器であるので、できれば耐用年数ギリギリまで使って元を取りたいという気持ちもある。さらにできることなら、ぶっ壊れるまで使って元を取りまくりたい。餅つき器もとんだ主人に買われたものである。結果、我が実家では餅つき器を使うために餅米を買って、鏡餅を作る、といったややこしい因果関係のもとに、年末に鏡餅を手作りしているわけです。
という想像を勝手にしております。餅つき器がどのような理由で今も使われているのか。真相は数年前なので記憶の彼方であり、私の脳の出来からして思い出せることは無いと断言できる。今度両親に聞いてみるか。
こんな風に色々書いたが、実は個人的には、手間はかかるが手作りするのも以外と楽しいと思っている。というのも、なんとなく、正月に参加してるなぁ、という感じがするからだ。つまり特別感があるからだ。思えば、私は小さい頃から日本の国民行事が好きだった。ひな祭り、端午の節句、お盆、お月見、正月。
正月になると、TVもお店もお隣さんも知らないお家も、お正月一色になる。年末の特番があり、年賀状を書いて送ったり届いたりし、玄関には正月飾りををつけた家がそこかしこで見られ、元旦になるとわざわざ深夜に神社にお参りにいく人々が沢山いて、NHKではどこかのお寺の除夜の鐘が鳴らされているのが放映されていて、科学的根拠は不明だが細く長く生きられる事を願って、決まってこの国の人達は年越しに蕎麦を食べている。長く続いた風習が、今は形骸化しているだけなのかもしれない。国民全員が示し合わせたかのように似たような作業をしている。そして、いつもは平静を装っている世間から、少しばかり心が浮ついて楽しそうな雰囲気が出ていた。子供の頃の私はその雰囲気が好きだった。まるで全国規模のお祭りのようで、何処に行っても溢れる非日常感は、まさに「めでたい」というものだった。きっと、そんな子供の頃の心の残滓があるために、私は今でも正月が好きなのだ。そして年末に一つ一つ餅を丸め、今年も終わりかとしんとした気持ちになりながら、来たる正月に心が少し浮つくのだ。
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2週間も更新してなかった件
先々週だったか、「マイ流行語」のお題を書いていたらパソコンがフリーズして、原稿が半分ほど消えてしまった。もう夜遅かったので書き直してる暇は無かった。それがショックだったのと、仕事と諸用に時間を取られ、ブログを更新できなかった。データの保存はこまめにやるべきだ。今日はこのブログを書きながら、こまめに右下の青枠に白地で書かれた「下書きを更新する」を押しまくった。このPCは大学の頃から使っていて、机から落とされたり飲み物をこぼされたりと、普通のPCなら故障してもおかしくない理不尽を乗り越え今に至っている。大学のレポートや卒論や部活のポスター作成や人生の目標とか日々思っていることのメモ等の真面目なことも、動画の視聴やゲームやネットでの無駄な買い物や世の男達が視聴するであろうサイトへのアクセス等といったバカみたいな事まで、このPCは私に付き合ってくれた。粗雑な扱いで大変申し訳ないという気持ちと、そんな私によく付き合ってくれたなという感謝の気持ちがある。せめてこのPCと作成してきたデータは無くならないように、今度HDDとかでも買ってこようかと思う。ご都合だが、なんとなくこのPCはそのために今も頑張ってくれている気がしてならないのだ。ありがとうPC。