思案中

あなたの暇つぶしになれば

今週のお題「こぼしたもの」 付属のスープ

 今週のお題は「こぼしたもの」だ。最近こぼしたものは何かあるだろうか。いや、特に思い浮かばない。ならば、「こぼした」の動作の主体を自分では無く自分以外にしてみてはどうだろうと考えてみた。

 ここで先日、中華屋で店員のおばちゃんが、私の頼んだ料理を置いていくときに、付属のスープを少しだけこぼしていったことを思い出した。そのとき店内はほぼ満席だった。家族連れ、仕事仲間、若い兄ちゃん達。私は一人、カウンターの隅っこで周りに背を向ける格好だった。店員のおばちゃんは忙しかったのか、料理を置いて行くには勢いが良すぎた。慣性の法則によりスープが器からこぼれたものの、被害がお盆の外へ拡大するこはなかった。

 だが、このことについて追求する気はないし、そもそも何とも思ってない。例えば、車の給油後に、ノズルから数滴が地面に落ちた、その程度だ。

 あと、これは私にとっては「こぼされたもの」になる。そこまで厳密な必要はなかろうが、つまり、書くにしては熱が湧かないのだ。何か良いネタはないだろうか。

 

今週のお題「こぼしたもの」

 

 「こぼす」。他の人の投稿を見て、何も物理的なものに縛られる必要は無いのだと分かった。愚痴とか、本音とか、目には見えないが実存するものも「こぼす」の対象になる。たしかに、「こぼす」は何も物だけに使用が限定されるわけじゃない。心にしまっておけず、つい口からでてしまう、そういうのも「こぼす」の対象になる。少し考えが足りなかったようだ。頭も固かった。こういうことがよくあるので、どうにかしたい。

 それにしても、だとしても、「こぼしたもの」は最近何かあるだろうか。やはり思い浮かばない。

 別に最近でなくてもいい。昔、学生時代とか。

 そう、学生時代に私は、人生においてとても大事な物をこぼしてしまった。それはもう元には戻らない。お盆にこぼした水が容器の中に戻らないように。または地面にこぼして吸われてしまったように。仮に戻したとしても、それは人々の常識的で倫理的な視点から考えて許されないように。なかったことにはできない。

 なんてこともない。

 本当はあるかもしれないが、こぼしたとしても認知できていないし、認知する前に、勘が働くということもある。主観的立場からすれば、その事象は私に認知された瞬間にはじめて、私にとって存在し事実となるのだ。だからそれが怖くて、気づかないふりをしている。のかもしれない。

 

 書くネタがなく曖昧な内容で終わろうとしている。

 もしもこのまま書くとするなら、こぼしたものは、時間とか、思い出とか、チャンスとか、アイデンティティーとか、なんかそういう、月曜日の前夜にさらっと書いて中身をつくるには、あまりにも不確かでぼんやりしてて恥ずかしいテーマだ。

 あまりにも字数が稼げないから、本題に入る前の冒頭の方が、まだ内容がある。

 もし、何かネタができたら追記しよう。