思案中

あなたの暇つぶしになれば

乗ってみたい動物

今週のお題「乗ったことがある動物」

 

 「乗ったことがある動物」という今週のお題

 

 できれば乗ったことのある動物について書きたい。しかし私は乗ったことが無い人間だ。書けないではないか。

 

 他のはてなブロガーさん達の投稿が気になってくる。

 意外と動物に乗ったことがあるという人は多いのだろうか。動物に乗るという経験は、私個人の意見としては少数派の様な気がする。

 

 しかしこのお題を設定したのは我らがサービス提供者であるはてなの人だ。

 そんな偉大な人達が少数派を対象にしたお題を設定するだろうか。いや、少数派を対象にしても良いのだが、経験してないとお題に参加しづらいだろうし、そこを考慮してないとは考えづらい。

 まぁ「乗ったことのある動物に関する内容のものしか投稿してはいけません!」という雰囲気ではなかったし、問題ないだろう。

 

 なので私は「乗ってみたい動物」について書いてみよう。

 

 乗ってみたい動物。

 私が現実的かつ割と本気で乗ってみたい動物は馬だ。

 馬は、人が乗る動物で最も身近に感じられる動物だろう。

 馬がいつから人を乗せくれてるのかは分からないが、戦国時代には馬に乗って刀を持った武士がえいやえいやと闘ってる様子が、中学の社会の資料集に載っていた。

 それに農業でも活躍している。田畑を耕すために、昔は動物の力を借りていたという主に馬と牛。ここでも馬がでてきた。

 他にも、マンガや本やドラマや映画などでも、馬が人を乗せて疾走してくれる様子がかっこよく登場する。

 今でも農場なんかに行けば、乗馬体験をさせてくれる所もあるし、ホースセラピーというのも聞いたことがある。そういえば大学のサークルにも、名前は忘れたが馬を飼育していた部活があった。皆さんとても馬中心の生活をしていて大変そうだったが、とても馬を大切にしていたのが端から見てて分かった。

 

 そうなるとやはり、馬こそ人を乗せてくれる最も身近な動物だろうなと思わずにはいられない。

 

 だが、私が馬に乗りたい理由は「身近な動物だから」、とかそれだけでは無い。

 

 馬、かっこいいじゃないか!

 

 人を乗せる乗せない以前に、馬そのものが格好良くて、割と動物の中でも好きな部類に入る。

 スラッとしつつ、筋肉質で、綺麗な毛並みは太陽によって光沢が出ており、主君に忠実につき従ってくれる(イメージです)。

 上品さを漂わせながらも大きく強くたくましい。

  私もそういう人間になりたいものだ。

 

 まぁ本当は馬と一括りに言っても種類があるので、全てが全てスラッとして筋肉質で毛並みに光沢があって綺麗なわけではない。

 モサッとして、ずんぐりして、顔が引き締まってない奴もいる。

 (もし私が馬に転生したらたぶんこっちだろうな)。

 

 もしも両者が出会ったらどうなるのだろう。自然下においては滅多にないだろうが、ないことはないだろう。

 どっちが上とかどっちが強いとか偉いとか、馬の世界でも人間の世界の様に色々あるだろうか。

 やはり見目の良いサラブレットは馬の世界でも美男美女と評されてモテモテなのか。人間界でもイケメンや美人はモテるし、カーストでも上位にいることが多い。

 それともスピードや力強さが大事なのだろうか。人間界でもイケメンはたしかにモテるが、金持ちや仕事ができる男も同等かそれ以上にモテる。運動ができたり知的な女性だって男性から見たら魅力的で、結局モテるだろう。

 だが性格がものをいう可能性もある。見た目が冴えず頭が冴えなくても性格が温厚で優しい人間だと、その人の良さから周囲からの人気者だったりする。馬の世界でもそういうのはあるのだろうか。

 私はどれにあてはまれるだろう。できれば見目も能力も性格も良い馬に当てはまれれば良いが、そうだとしたら明日は空から槍が降るだろうな。

 

 エピソードが全くといっていいほど無い。

 馬世界の序列がどんな風に決まるのかは分からないし、この違いは馬の個性だから優劣がどうの言うつもりは無い。

 しかし、頑張って頭のなかをあれこれ巡らせて字数を稼いだ結果がこれでは、私が馬に転生したときはそれはそれは、ずんぐりとモサッとした冴えない馬なのでしょうな。

 

 頑張って性格磨こう。

 

私がブログを書く理由

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

 わたしがブログを書く理由、それは文章が上手くなりたいからだ。

 上手い文章を書けたら、きっと心地良いのだろうと、その心地よさを味わうことを夢見て、私は文章の練習としてブログを書いている。

 

 文章を書くことに興味を覚えたのは高校生の頃だ。私は幸運にも推薦入試を受ける権利を得たので、秋頃からひたすら小論文の練習をやっていた。当時の担任が現代国語の先生だったので、小論文の添削も面談の練習も、その先生に付き合ってもらっていた。私の一生の恩師である。

 

 さて、その小論文の練習で初めて添削してもらった時のことだが、見事に真っ赤になって返ってきたのを覚えている。

 「おぉ、思った以上にダメだった。」

 赤ペンにより私の文章は原型をとどめていなかったし、あまりの赤っぷりに逆に関心してしまった。

 

 経験ないだろうか、「以外といけるんじゃないか?」と思ってしまうことが。そして他人様から見れば実はダメダメなことが。

 私はしょっちゅうある。自分を過大評価していたことに気づかされて、勘違いの高揚はサーッと引いていく。そして羞恥の高揚が代わりにやってくるのだ。

 

 話が逸れた。

 

 真っ赤とはいえ先生の添削は分かりやすく、テーマに対する意見の持ち方と伝え方は非常に勉強になった。

 

 考えてみれば、正しい文章の書き方というものを、私達は学校で習っていない気がする。

 確かに国語の時間もあるし作文を書かされることもあるが、文章については大抵は誤字や文法、前後の矛盾や内容が大幅にズレていないかなど、それくらいのチェックを受けて終わりではなかっただろか。

 しかしそれだけでは足りない。大学や社会という環境に身を置くとなれば、求められるのは、自分の考えや意見を正しく分かりやすく伝えられる力だと思う。

 そこまで深くは(深くないかもしれないが)考えられなかったが、その点この小論文の練習は正しい考え方と伝え方を学んでるような気がして、今までのどの教科とも違う、不思議な面白みを感じた。

 だから、勉強なんてつまんないぜ派高校生の私にしては珍しく、興味深いなという気持ちで集中して机に向かうことができた。

 

 さて、私が書いた文章達は、最初こそ先生の赤ペンの餌食になっていたが、1文また1文と、練習を重ねるうちに、赤ペンによる制裁を受けても原型をとどめるようになってきた。

 制限時間にジリジリと追い詰められる不快感の中、苦悩して生んだ我が文章達がなんとか形を保って生還するのだ。嬉しかったし、自信にもなった。

 

 そしてさらに練習を重ね、私は自分の考えをスラスラと原稿用紙に書けるようになり、修正されることもほとんど無くなっていった。

 これはもっと嬉しいことだった。かつては自分の主張を原稿用紙に書くまでに時間ががかかっていた。○○だ!という主張に対し、何故そう思ったのか、とか、主張を補強する具体例は何かないかとか、一般的な考えと照らし合わせて変では無いだろうかとか、うんうん悩みながら文章にしなければならなかった。

 それがいつの間にか、主張が思い浮かぶと同時に、理由や具体例なども頭の中に浮かんできて、手を動かせば意識せずに文章にできるようになっていたのだ。そしてそれは先生から認めてもらえている。嬉しくないわけがない。

 

 練習を始めた当初と比べると差は歴然である。今までは原稿用紙1枚書くのにすごく時間がかかるうえ、中身も何を伝えたいのか分からなかった。でも、明らかに書くスピードは上がり、中身も良くなっている。おまけに修正されることもだいぶ減った。私の文章力は確実に成長しているという手応えがあった。

 

 そしてその年の12月。私は入試を突破することができた。

 実はその裏で、入試1週間前に過去問請求ができることに初めて気づいたり、電話してその日のうちにチャリで爆走して取りに行ったり、過去問を見たら今まで練習していた出題形式と全く異なるものだったり、それにより私のメンタルがてぇへんなことになったりしたが、鍛えた私の文章力は何とか本番までにそれに適応し、大学側に認めてもらえた。

 

 クラスの中では、推薦や指定校推薦(なんか推薦より簡単そうなやつ)により、既に受験を終えたのが数人いたが、幸運なことにその中に私は含まれた。その年は受験期とは思えない、平和な冬休みを迎えることが出来た。

 

 小論文の練習にあんなに前向きに取り組めた理由。

 それは、私が小論文に興味を持てたこと、だから練習を重ねて上達できたこと、だからやる気を保てたこと、そしてそれらを引き出してくれた先生のおかげだ。

 

 だが今思えば、自分の思考が瞬時にまとまり、手を動かして文章にしていく、その一連の行為が私にとっては新鮮で、文章を書くことそれ自体が楽しかったんだなと思う。

 

 冒頭に書き忘れたが、つまり私は、自分の思考を文章にする作業そのものが好きなのだ。ブログを書く理由も、書くのが楽しいから書くのだ。(だったら最初からそう書けってな!)

 

 

 だけど、まとまりがなかったり、乱雑だったりするのは、書いていてもあまり楽しくない。むしろモヤモヤする。ちゃんと筋道が通っていて、自分で「よし」とそう思える、満足できるような文章が書けることが条件だ。

(筋道が通ってるとか、満足できるとか言ってるが、あくまで自分の中の基準だ。)

 

 私は本を読むのも他人のブログを読むのも好きなのだが、私の考える上手い文章とはシンプルだ。時間を忘れて読んでしまう、そういう文章だ。

 誰もが経験あるであろう、1文を読むと次の文章、また次の文章と、自然と目が吸い寄せられてしまう文章。読むことを意識せずとも気づいたら次の文を追ってしまう文章。

 なんであんなに引き込まれるのだろうか。

 きっと、こっちの感情が動かされるからだなと思う。鳥肌がたったり、熱くなったり、冷え冷えとしたり、面と向かって言われているような緊張があったり、自分と重ねなるところがあって共感できたり。

 

 もし、私ががそんな風に人を感動させられるような文章を書くことができたらと思うと、月並みな感想だがワクワクしてくる。

 

 そしてそんな文章を書けたなら、書いてる瞬間は夢中になって手を動かしているのだろう。ならば、上手い文章が書けるようになりたいと、そう思わずにはいられないじゃないか!と、最近気づいたのである。

 

 今の私は、せめて文章の体裁を整えようと必死で、その程度だ。

 だが、だからといって今文章を書いているのがつまらないわけではない。最低限、文章としてまとまっていると思えるものが書けたときは、書いてる瞬間はやはり夢中になれているし、書き終われば満足感が包んでくれる。

 枯れた社会人には潤う時間が必要なのだ。

 

 だから私は、文章が上手くなりたくてブログを書いている。加えて、文章を書く行為自体が楽しいから。

 私がブログを書く理由はそんなところです。

 

ここまで読んでくださり、ありがとうございました!

一から

 久々にブログを書く。

 久々にブログを書くときはいつもこの出だしなので、他に何か良い出だしは無いかと考えたが無かったので結局これにした。

 

 

 タイトルのとおり。一からブログを始めようと思う。

 

 ずっと放置していたが、やっぱりブログ書きたいなと思ってまた書くことした。

 

 このブログは3年前?くらいからやってた。けど仕事が忙しくてとてもブログに向かう余力はない。結果放置してしまった。

 

 書いてない罪悪感からますます向き合いづらくなり、結果、放置されていったこのブログだが、ほんじつ大学時代の友人と電話してたら「私も何か挑戦してぇな」と、やる気をもらった(話の内容はまた別で)。

 

 やる気をもらった私が「やっぱブログ書くわ!」と友人に宣言し、その勢いで数ヶ月ぶりにこのブログは開かれたのだが、放置していた罪悪感がどうにも私から離れない。

 脳内で会議をした結果「更新日が古すぎる過去の記事が目に入るから、放置ちていたという罪悪感が自然と連想されるんじゃね?」という結論が導き出され、よし、ならば消そうと。。。

 

 過去の全ての記事が消されるという暴挙が実行され、今に至る。

 

 過去に書いた記事たちよ、すまん。

 

 

 もちろん、楽しく書いたり、スター付けてもらったり、コメントいただけたり、嬉しい思い出もあるけど、それ以上に「見たくない」が勝ってしまったのだ(しんどい時に書いてたブログも多くて思いだしたくなかったってのもある)。

 

 

 もともとこのブログは「文章上手くなりたいな」みたいな緩い理由で始められた。

 というような理由で当時は記事を書いてたが実は割と本気で上手くなりたいなと思ってたりする。

 

 しかし、ちっとも上達しない文章とちっとも上手くいかない仕事の毎日に心身は疲弊し、「なんか何やっても上手くいかねー」「何やっても意味ねーじゃん」(他にも色々手出してたんだ。語学の勉強とかね)と、鬱々な日々を過ごし、結果放置して今に至る。

 

 

 

 それでも今日こうして書いてるのは、やっぱ文章上手くなりたいなと、自分の欲を再確認したからだ。

 

 どうも私は文章が上手い人に憧れる。

 読んでてつい夢中になってしまうような文章を目にすると感動するからだ。

 

 あと、高校の頃に大学に推薦入試を受ける権利をもらい、以降は小論文の練習を毎日のようにしてたのだが、原稿用紙にスラスラと自分の考えを書いてる瞬間がすごく気持ち良かった。(恩師が丁寧に添削してくれたおかげで成長し、入試は突破できた。)

 

 大学に入学してからは、卒論を書くまで長い文章は一切書くことは無く、文章力が低下した。

 社会人になってからも状況は変わらず、一層低下した文章力となって今に至る。

 

 

 ライターとか小説家とか、そこまでとは言わない(本当はそこまでになりたい)。

 私も書けるようになりたい。

 

 それに、

 「もし、読んで夢中になるような文章が自分でも書けるようになったら」

 そう考えると、体の中の満足袋が膨れてくる。

 

 やっぱり私は文章が上手くなりたい。

 

 それに今日気づいた。

 だからまた始める。

 

 それに、今度は一人じゃ無い。

 

 実は冒頭に電話した友人Aとは、半年前から面白い取り組みしていた。

 「お互いに目標を宣言して進捗報告をし合わないか?」

 と、定期的に自分の努力を報告し合っていたのだ。

 

 人それぞれ、この世界に生を受けたら大なり小なり野望があるはずだ。

 しかし、野望のために行動しても、継続という壁が行く手を阻む。それを乗り越えても様々な外的要因が立ちはだかるが、まずは、いかに努力を継続するかが問題なのだ。

 

 努力は一人よりは二人の方が良い。人の目があることで張り合いが出る。

 

 今度こそやるぞ。

 私は文章が上手くなる!

 

 ~~~

 ここまで読んでくれて、ありがとうございました。