思案中

あなたの暇つぶしになれば

今週のお題「急に休みになったら」 ごりごり珈琲淹れます

 年明け後のある日、高校時代の友人と喫茶店を巡った。巡ったといっても2件だけだが。私は珈琲が好きで、飲まない日は無い。友人はもっと珈琲好きで、色んな喫茶店を知っているし、そこで色んな珈琲を飲んでいる。さらに、自分で豆を挽いてお湯を注ぐ時間まで計っte珈琲を淹れている凝りっぷりだ。真の珈琲好きといえる。そんな友人が私に誕生日プレゼントをくれた。それは珈琲ミルだった。珈琲なんてスーパーで紙パックのやつを買うかコンビニで缶珈琲を買う程度しか経験がない。だからそれ以降、私は新しいおもちゃをもらった子供のように好奇心を膨らませ、休みの日は朝から豆を挽いている。

 

今週のお題「急に休みになったら」

 

急に休みになったら

 ずばり、急に休みになったら、ごりごりと珈琲豆を挽いて、ドリッパーで抽出し、丁寧に珈琲を淹れたい。平日の忙しい朝には、とてもじゃないが、そんなことはできない。一杯のためだけに時間をたっぷりと贅沢に使う。時間がある休日だからこそできるのだ。そして何より、美味しい珈琲を自分の手で淹れられるようになりたい。珈琲を豆から挽いて淹れるのは楽しいし、なんか上品な感じがして良い。ところが、珈琲を淹れて馴れてないこともあり、私が淹れるととてつもなく不味いものが出来上がってしまうのだ。どうせなら楽しく淹れて美味しく飲みたいではないか。

 なので、私は上手い珈琲を淹れることを目標にして、休日は珈琲を淹れることとしている。

きっかけは珈琲ミルをもらったこと

 冒頭のある日、夕方になってそろそろ帰ることとし、私の車で友人をアパートまで送迎した。すると、アパートの玄関先にアマゾンの箱が置いてある。友人は何事もなさそうに「届いたかー」とかいって箱を持って部屋に入る。私は無断でついていく。カッターを棚から出して中身を傷つけないように浅く刃を入れた。私がその様子を見ていたら、箱の中身の箱を取り出して私にくれた。それが珈琲ミルだった。他にもドリッパーや紙フィルターやケトルまで頼んでくれたようだった。友人曰く、私への誕生日プレゼントとのこと。まさかそんなこと考えてもいなかったので、2024年分の感謝と驚きを友人に伝えることとなった。

道具は見てるだけで楽しい

 さて、家に帰ってじっくりとそれらを観察する。「初心者用の安いやつだから」と友人は言っていたが、それでも大きな出費だったはずだ。改めて感謝した。そして見た目もシンプルでお洒落だ。友人は服とか物とか、そういうところのセンスが昔から良いやつだったので、さすがである。それにしても、まさか私がハンドドリップのセットを手にすることになるとは。まさに青天の霹靂ってやつだった。私は珈琲は好きなので、ハンドドリップに対し興味が無いわけでは無かった。だが、機材を揃えても面倒くさくなって辞めるかもしれないし、そうなったら勿体ない。スーパーで売っている紙パックのやつでもコンビニで売ってるやつでも十分に美味しい。正直、ハンドドリップにこだわる理由が無かったので買おうとは思わなかった。しかし、こうして目の前に現れたのなら話は別だ。誕生日プレゼントに初めてゲームを買ってもらって、それを手にしたときと同じような気持ちになった。

ごりごりと珈琲豆を挽く

 翌朝、早速珈琲を挽いて淹れてみた。湯を沸かしてる間に、珈琲ミルに豆を入れて挽く。豆も友人からもらい、袋を開けると、今まで嗅いだことが無い、とても良い香りがした。ハンドドリップのために豆を買った人しか味わえない香りだ。スプーンですくい、ミルに入れられる豆は、壁や底にあたってカラカラと軽い音を立てて貯まっていく。そして蓋を閉め、取っ手をつけ、ゆっくりと挽いた。が、まったく動かない。思ったより固かった。ゆっくりと徐々に力をこめていく。早く挽くと豆が熱をもってしまい、良くないらしい。壊れないよな?と思うほどに力を込め始めたあたりで、ゴリっ、という音とともに取っ手が回った。それからはゴリゴリと豆を挽く音が耳に入り、豆がすりつぶされていく感触が手から伝わった。私はいま、豆を挽いてるんだなぁ、となんだか優雅な気持ちなった。

丁寧という面白み

 ごりごりと豆を挽いて、臼(挽く部分)の下にある筒状の器部分には、紙パックの珈琲でもよく見かける、細かく粉状になった豆が貯まっていた。フィルターに移すためミルの臼の部分を取り外し、中身がこぼれないように、丁寧にフィルターの中に粉を移し替えた。この取り外すというちょっとした手間や、こぼさないようにそっと器を傾けて、静かに中身を入れ替える作業などは、一種の繊細な手仕事をしているかのように感じられ、同時に、火を使った理科の実験をしているかのようなワクワクもあった。無事に移し替えところで、お湯が湧いた。タイマーをセットし、ゆっくりとお湯を注いだ。

抽出していくっ

 ポタッポタと、ドリッパーから少しずつ、珈琲がカップの中に貯まっていく。豆を挽いたり湯を注いだりすする過程で、部屋の中には芳醇な香りが漂っている。珈琲があらかた出きったところで、カップの上のドリッパーを外した。ドリッパーで蓋をされていたので、白い湯気がもわっと出てくる。たった一杯のために、こんなにも真剣かつ時間と手間をかけるなんて。非効率な気がする反面、どこか贅沢で優雅な気持ちになる。一体どんな味なのか、きっと今まで味わったことに味なのだろうな。そして、愛着すら持ってしまいそうな、初めて自分で淹れた珈琲を飲んだ。

不味い

 結論、滅茶苦茶酸っぱかった。この豆大丈夫か?と豆の腐りを疑うほど酸っぱかった。私の味覚がおかしいのかもしれないと思い、事情を話して試しに母上に飲んでみてもらった。しかし、「酸ぅっぱ!」という単語とともに、この豆大丈夫か?と豆の腐りを疑うような表情をしておられた。どうやら、時間と手間をかけた結果、信じられないくらい酸っぱい珈琲が出来上がってしまった(そして苦い)。もう、さっきまでの感動と優雅さは無かった。どうして上手く淹れられなかったんだ?こんな面白いものを貰ったのに、結果がこれであることは許せなかった。

我未熟

 結果、分かった原因は、私の挽き方と淹れかたが未熟だったことと、豆が酸味が強い豆だったからだった。実は、蒸す段階でも抽出する段階でも、粉が妙にお湯を吸わなかったのだが、それはミルの粒度が細かくなりすぎていたせいだったようだ。例えるなら、水はけの悪い泥の上に水をかけているような見た目だった。ちょっとおかしくないか?と思ったのだが、こんなものかと気にしなかった。ちゃんとおかしかったようだ。あと、豆についてだが、友人は酸味の強い珈琲が好きらしく、その豆はグアテマラ産の浅煎りの豆だった。グアテマラ産の豆は酸味が強いのが特徴で、浅煎りの豆は酸味が出るのが特徴だ。つまり、豆自体がそもそも酸っぱく、入れ方が悪いので良い酸味を引き出せず、悪い酸味が引き出されてしまったということだ。

故に珈琲を淹れる

 そんなわけで、私はただいま美味しい珈琲を淹れようと、週末の休日にはごりごりと珈琲を挽いて研究を重ねているわけだ。ミルの粒度を変えてみたり、お湯の注ぎ時間を変えてみたり、蒸すときのお湯の量を変えてみたり、撹拌してみたり、色々と試している。少なくとも、最初の滅茶苦茶酸っぱい珈琲よりは美味しいのができるようになってきている。だから、もしも急に休みになったら、私は絶対に珈琲を淹れますね。