思案中

あなたの暇つぶしになれば

昔、夏にパニクった思い出

今週のお題「夏の思い出」

 

 久々に何か書きたいと思い今週のお題に取り組むことにした。いや、「何か書きたい」なんて、常日頃文章に向き合うライターとかエッセイストとか、そういう人達が言うなら分かるけど、何でもない私がいうと大げさでカッコつけで叩きたくなるな。でも書きたいんだもん。なんかこう、もんもんとしてる頭の中とか心の中とか、そういうのを吐き出したいんだよな。空っぽかもしれんがな。でもまぁそのためのはてなブログだもんね。

 

 かといって特に書くこともない夏の思い出。20代後半の人間が、夏の思い出というお題に対して「特に書くことがない」なんて、寂しすぎだな。そして実は私は大して寂しいとは感じておらず、世間一般的には寂しいことなんだろうなー程度にしか感じられないこともまた、寂しいことなのだろう。本当人生ってなんなん。とまるで人生が自分の力ではどうしようもないものであるかの如き態度を取っているが当然そんなことはない。夏の思い出がないことも、私がそのことについて何も感じないことも、全て私の怠慢が故である。そう、人生の怠慢。

 

 しかし頑張ってもどうにもならない時もある。そんな時はどうすれば良いのだ。神は乗り越えられる試練しか与えないというが私から言わせれば嘘である。そこらへんのSNSでも何でも見て欲しい。現代日本において、試練に破れた生ける屍がいかに多く存在することか。もはや生ける屍が社会を回しているといっても良い。あぁ神よ、一見生きてるように見えますが中身は屍です。もう少し、もう少しだけ個人個人の力量を見て、それに見合ったレベルへと引き下げていただくことはできないのでしょうか。

 

 相変わらずメンタルがへらっていることを確認したので明日も温泉に行こうと思う。

 

 というか夏の思い出。お題に投稿するからには何か書かねば。

 

 海に落ちたことがあります。夜釣りで。ひっさびっさに高校の頃の友人達と釣りキャンプしようということになって、キャンプ場近くの港に行ったんですよ。最初は海に落ちないように気を付けてたんですけど、時間が経つにつれて、全く釣れないことと、夜の港、という状況に段々飽きてきて、すっかり緊張感が無くなってしまいました。それでふと足下をみたら、エサにすらなれなかった無残な姿になったイソメがいたので、せめて母なる海へ返してやろうと思ったんですよね。今思えば命をエサとして扱いそのうえ「せめて返してやろう」って何様だよ。そんで、この位置からだと海まで届かないからもっと際まで近づこうとしたんだけど、楽しさで完全に浮かれてて、何故かヘッドライドもその時offにしてて、1歩また1歩と際に近づきました。で、何歩目かの足を踏み出したとき、あれ、こんなに堤防(歩くスペースのとこ)広かったっけ?って疑問が頭をよぎりつつ、踏み出した足を下ろした瞬間に落下感とザバンという音と全身が液体に包まれる感覚が同時に来ました(ほんと馬鹿)。さて、夜中に海に落ちた後人間は何を考えるのか。まず、パニックなります。海に落ちた。これだけでパニックですが真っ暗なので何も見えないのでパニック×2です。ですが奇跡的に、すぐに海落ちたことを理解して息を止めることができたので、苦しみでもがき溺れるという事態はさけられました。そして、何としても息は止めたまま、不用意に動かない、というこの2つだけをパニックなりながらも実行しました。おかげで少し冷静になります。しかしそのせいで色んな思考が浮かびます。まずやっちまったという思考が浮かびます。もしこれで○んだらまたは捜索とかになったら一体どれだけの人間に迷惑がかかるのか。想像しただけでも恐ろしい。そしてその次に、海であるあるの怖い話を思い出します。よくあるのは、足を捕まれて海中にひきこまれるやつです。幸いその気配はありませんでした。そしてその後、じっとしてるのに全然海面に浮かばないなと気づきます。実は息を止めたのはいいけど、落ちる瞬間にほとんど息を吐き出してしまってたみたいで、肺にほとんど空気がありませんでした。急に苦しくなってきます。そしてこの港の水深がどれだけあるのか分かりません。もしかしたらだいぶ深いところまで潜ってしまったのかもしれない。衣服も水を吸って重くなり、夏だから私はズボンとTシャツ1枚という格好だから、服が空気を保ってくれている可能性は0に近いんじゃないか。だとすると自分で海面上がらなくてはならないじゃないか。そして猛然ともがきます。海面に向かって、しかし、いくらもがいても海面にでない。光はなにもない。何も見えない中で液体をかきわけ上を目指します。あるのは触角だけでした。本当に苦しくなったときにやっと海面に出ました。ハッハッと息を吸って、同時に大丈夫か!という切羽詰まった声がします。私はきっととんでもない顔をしてたと思いますが、「んぁあ↑↑、大丈夫大丈夫」と強がります。幸い、港の壁は目の前にありました、あとはここに手をかけて登ればいいと思いましたが、水の中だから体は安定しなくて、さらにどこを掴めばいいのか分からない。そもそも掴むところあるのか?ですがこれまた幸い、ちょうど手を伸ばしたところに段差があったのでそこに手をかけ、あとは懸垂みたいに体を引き上げれば良いだけです。そして右足を段差にかけ、右足で体を支えてさらに上へ手を伸ばします。やっと堤防の上(歩くスペース)に手が届き、これも懸垂の要領で体を引き上げます。この時ほど筋トレで懸垂をやってて良かったと思ったことはありませんでした。堤防の上に立って、少しずつ落ち着いていきます。すると突然足ががくがくし、体が寒くなってきました。やっぱりパニックで怖かったようです。体に異常ないか確認していると、腕には壁をよじ登るときにできたのか。牡蠣か貝の殻で切り傷ができてました。とくに薬指は上から下までスぱぁんと切れてます。これまた幸い、傷は全て浅かったです。その後、冷えた体と心を落ち着かせるため、友人の車で温泉にいきました。以上、オチはありません。

 

 本当に幸運だった。あのあとどうして自分が助かったのか考えてみたところ、色んな偶然が重なってくれてたおかげだということが分かった。

・落ちたのが港の外ではなく中だったこと

・波がおだやかだったこと

・落ちた付近に舟など障害物はなく、頭をぶつけたりしなかったこと

・海落ちたと理解しすぐに息を止められたこと

・私は泳ぎが得意だ、という自信があったので、不得意な人に比べたら恐怖やパニックによる影響が少なかったのでは無いかということ

・港の壁に段差があり、全て私の手が届くところにあったこと

・筋トレをしてて自分の体くらいなら引き上げたり持ち上げたりするくらいはできたこと

・友人がいてくれて心に余裕があったこと

・実は私はあの時○ぬ運命だったが、神仏やご先祖などの有難い力のおかげで生かされたのではないかということ。(なお、見当違いだとしても、感謝しても罰は当たらないこと)

 

 というような感じです。夜中で眠いのでだらだらと書きましたので読みづらいでしょうがご容赦ください。そして読んでくれてありがとうございます。本当に懲りたので次はこんなアホなことはしません。ちゃんとライトはおonにしてライフジャケット着ます。反省してます。もし海に行かれることがあったら、皆さんもお気を付けて楽しんでください。あと自分の命を守るためにも、自分の体をどうこうするくらいの筋トレはしてると良いかもしれません。

 それでは。

「新世界より」を読んで思ったこと

 本が読みたい。ついこの前まで1Q84の4巻目を読んで最後のページを読み終わった頃、さぁ5巻目と言わずに、何故か違う作品を読みたいと思ってしまった。あの不思議な世界観設定に対して分かりやすくも独特な文章表現を用いて、私の想像力を見事に引きずり出し、その世界にどっぷり浸からせてくれる村上作品が私は大好きなのだが、最近村上成分を摂取し続けたせいだろうか、ちょっと違う作品で息抜きしたいと思ってしまった。そして「本が読みたい」と思ったのだ。どういうことだ。

 思えば、折角の夏期休暇なのに読書にどっぷり浸かる時間を作っていなかった(お墓参りとかしてた)。そのためこの16日&17日&18日で、折角なら普段読まないジャンルを読んでみようではないかと決意し、スマホで色々検索した結果、「新世界より」を手にすることになった。

 講談社出版で文庫本は上中下巻の3冊。金曜日の夜に1巻、17日の昼に1巻、18日の朝に1巻という具合でしっかりどっぷり浸かった。こんなに読書に時間を溶かしたのは今年になってから久々でした。たまりませんわ。

 

以下は感想です。個人的な感想を深く思考せずに吐き出すだけで、ネタバレもあるかもしれないですし、世界観設定について説明は一切ありません。あと感想は浅いです。ちゃんと理解できてなくて妙ちくりんですがご容赦ください。

 

作品に対しての印象

・展開が怒濤でした。

 次から次に、こんな世界観設定だったのかぁ、とか、これは主人公達危ないんじゃないの?とか、なんだこの生き物、とか、細かく作り込まれた世界であり主人公達のストーリーが進むので、「次どうなるの!?」という好奇心が刺激されてページをめくりまくってしまいました。

・色々ジャンルが混じってた

 SFであり、冒険であり、青春であり、戦争であり、ミステリであり、恋愛?であり、なんか色んな要素がつまっててお得感がありました。

印象に残ったところ

・奇狼丸がかっこいい

 正直申し上げまして、作品に出てきたどんな人間よりも、化けネズミの奇狼丸が私はかっこよかったです。そりゃあ冷酷な部分もありますよ。敵対した土蜘蛛コロニーほぼ皆殺しにして赤ちゃん奪って奴隷にするって言ってるし(でも化けネズミの中では当たり前の事らしい)。だけど、自分の命を救ってくれた覚に恩を感じて、上からの命令に背いて助けてくれたりとか(化けネズミは人間に支配されてて、奇狼丸は主人公達を抹殺するか連行するかの命令を受けてたと思います。)、コロニーがほぼ壊滅して味方が身を挺して自分を守ってくれたは良いけど部下を全員失って、戦えるのが自分一人という状況になってもコロニー存続のために最後まで諦めないで戦ったりとか。そして何よりも、自分が死ぬことが前提の作戦を了承し、人間の格好に扮して躊躇せず悪鬼(正確には悪鬼じゃないけど便宜上悪鬼とします)の前に姿を現したシーンが、私はすんげぇと思いました。彼だけ戦国時代からタイムスリップした武士だったのではないかと思いました。自己犠牲がうんぬんとかを言いたいのではないです。奇狼丸の行動を見てると、彼には彼の中で考え抜かれた信念があって、そこには知性を持った1つの生命体が真剣に考えて、何度も何度も熟考を重ねたようなものを感じたので、かっこいいと思ったのです。奇狼丸はあの作品の登場人物の中でもかなり上位の、立派な知性と人格を備えた人物だったと思います。

・悪鬼と業魔対策が不十分ぽい

 血も涙も無いと言われそうですが、選別を行なったり不浄猫で命を奪ったりするなら、悪鬼業魔対策で捨て身で対抗する人間を集めた組織を作ってても良かったんじゃないか?と思いました。攻撃抑制と愧死機関のおかげで平和といえば平和ですが、それが仇となって、悪鬼業魔に対して呪力を用いて戦えず一方的に殺されてちゃ、結局全滅されるじゃん、と思いました。

・もっと人間は自分達を知るべきではないか

 知らない方が良い知識っていうのは確かにあると思いますが、だとしても人間の本能や心理について、特に暴力的な部分について、禁書として一般には触れられない知識として見ない振りをしてたのは、良くないよなぁ、と思いました。平和な世界を守るためには秩序や規則が必要ですが、そのルールの中には自分達が綺麗なままでいたい、という欲が入っているようにも見えました。人間も所詮どうぶつで、怒りに我を忘れるときがあるかもしれません。でもだからこそ、そういうときどうすれば良いの?って対策を立てるには、そういう自分の認めたくないところを認めないと前に進めないじゃ無いですか。そして今自分らがそういう道を作っておけば、他の人や次の世代の人達が、その道を通らなければならないときは、もっと通りやすくなっているはずです。だから、人間の暴力的な歴史や心理を禁書扱いして、見なければならない事実を見ないようにしていたあの体勢は、如何なものかと思いました。

 

 おわり。

お盆休暇を取れた

 久方ぶりのブログだ。

 今年の4月に異動になって、新しい職場で怒濤の日々を過ごして、ブログを書く時間が無くて、現在、とても久方ぶりにはてなブログを開いて、画面に文字を打ち込んでいる。私の仕事の要領が悪いせいなのだが、仕事以外の時間が本当に取れなくてしんどかった。どうにか来年度は、こんな状態から脱せられるようになっていたい。(可能なら今すぐにでもそうなりたい。)

 怒濤の日々を頑張った甲斐があってなのか、自分の仕事の状況を分かっていないからなのかどちらかは分からないが、お盆(13~16日)休暇を取ることができたので、現在こうしてブログを更新している。私のお休み状況を整理すると、10日から12日は土日祝日で、13日から16日はお盆休暇で、17・18日は土日だ。つまり9連休だ。学生の頃の私なら嬉しさで舞ってただろうが、今は嬉しさよりもこんなに休んで大丈夫だろうかという不安の方が大きい。26年生きてきて、休暇に不安がつきまとうことがあるのだなと初めて知った。できれば知りたくなかった。

 この連休を利用して、学生の頃の友人達と会って遊んだ。中学の頃の友人と、高校の頃の友人だ。どちらも元気そうだったので何よりだし、久しぶりの再会なのに、そんな空白など無かったかのように接することができた。つまり、お互い本人を前に普段通りのテンションかつ久方ぶりの再開を喜べたというわけだ。久々に会うので、上手く話せるかな?とか思っていたが、杞憂に終わった。私は、最近どうしているのか、休日は何をやっているのか、年取ったせいか油っこいものが食えなくなってきちまったぜ、等、思いつくままに話しを進めた。久方ぶりに会った友人がそんな調子なら気構える理由等ないわけで、相手もすぐに調子を合わせてお互いベラベラと近況報告をしたり飯を食ったりエトセトラだ。中学の頃の友人とは、今度富士山に登ろうという約束をし、高校の頃の友人とは、今度仙台に遊びに行くよという約束をした。

 

 最近、感動することが少なくなってきている。あまり良くないことだなと思う。前まで好きだった読書や、アニメや、映画はなんか読む気・見る気がしなくなって、ランニングや筋トレも前はモチベーション高く続けていたのだが今はそれほどでもない。というかほぼしていない。季節の移ろいや国民行事については、前は新緑の鮮やかな緑や、どこまでも青い空にはっきりと浮かぶ入道雲など、変化する自然に対して「あぁ良いなぁ」と心が動いたし、端午の節句や七夕やお盆等の行事に合わせて、世間のその雰囲気が感じられると、どこか懐かしく味わい深い気持ちになれた。しかし今年はそれがない。何か強くやりたいこともない。どうにも心の動きが鈍っている。脳みそを少しずつ機械に置き換えられて、生きる上で不必要と判断された心理機能を勝手に捨てられているような気分だ。このままではただの自律する肉の塊になってしまう。

 

 友人達との約束を守るためにも、自分の情緒を取り戻すためにも、今の私には余裕が必要だ。そのためには少しでも仕事を上手く片付けられるようにならなくてはならない。何かをするためには何もない空間が必要で、そのためにも仕事ができるようにならなければならない。そういえば前にもこんなことを言っていた気がする。私は仕事を頑張らなければならない。

 結局その結論に行き着くということは、そういうことなのだ。何も考えず我武者羅に進むことも重要だ。お盆明けからまた頑張る。

過労死ラインなるもの

 過労死ラインを超えても仕事が終わりそうにない。仕事と生活と休息以外に割ける、何かを為すための時間がない。スキマ時間でできることは限られている。なんでもかんでも積もれば成果がでるわけではない。

 どうすりゃ仕事ができるようになるのか。

 今はただそれを考えて生きている。

 仕事以外のことをするにはまず仕事ができるようにならなければならないからだ。

 チャイムが鳴れば終わっていた、考えることを放棄していた、昔の自分のツケが来ている。

今週のお題「急に休みになったら」 ごりごり珈琲淹れます

 年明け後のある日、高校時代の友人と喫茶店を巡った。巡ったといっても2件だけだが。私は珈琲が好きで、飲まない日は無い。友人はもっと珈琲好きで、色んな喫茶店を知っているし、そこで色んな珈琲を飲んでいる。さらに、自分で豆を挽いてお湯を注ぐ時間まで計っte珈琲を淹れている凝りっぷりだ。真の珈琲好きといえる。そんな友人が私に誕生日プレゼントをくれた。それは珈琲ミルだった。珈琲なんてスーパーで紙パックのやつを買うかコンビニで缶珈琲を買う程度しか経験がない。だからそれ以降、私は新しいおもちゃをもらった子供のように好奇心を膨らませ、休みの日は朝から豆を挽いている。

 

今週のお題「急に休みになったら」

 

急に休みになったら

 ずばり、急に休みになったら、ごりごりと珈琲豆を挽いて、ドリッパーで抽出し、丁寧に珈琲を淹れたい。平日の忙しい朝には、とてもじゃないが、そんなことはできない。一杯のためだけに時間をたっぷりと贅沢に使う。時間がある休日だからこそできるのだ。そして何より、美味しい珈琲を自分の手で淹れられるようになりたい。珈琲を豆から挽いて淹れるのは楽しいし、なんか上品な感じがして良い。ところが、珈琲を淹れて馴れてないこともあり、私が淹れるととてつもなく不味いものが出来上がってしまうのだ。どうせなら楽しく淹れて美味しく飲みたいではないか。

 なので、私は上手い珈琲を淹れることを目標にして、休日は珈琲を淹れることとしている。

きっかけは珈琲ミルをもらったこと

 冒頭のある日、夕方になってそろそろ帰ることとし、私の車で友人をアパートまで送迎した。すると、アパートの玄関先にアマゾンの箱が置いてある。友人は何事もなさそうに「届いたかー」とかいって箱を持って部屋に入る。私は無断でついていく。カッターを棚から出して中身を傷つけないように浅く刃を入れた。私がその様子を見ていたら、箱の中身の箱を取り出して私にくれた。それが珈琲ミルだった。他にもドリッパーや紙フィルターやケトルまで頼んでくれたようだった。友人曰く、私への誕生日プレゼントとのこと。まさかそんなこと考えてもいなかったので、2024年分の感謝と驚きを友人に伝えることとなった。

道具は見てるだけで楽しい

 さて、家に帰ってじっくりとそれらを観察する。「初心者用の安いやつだから」と友人は言っていたが、それでも大きな出費だったはずだ。改めて感謝した。そして見た目もシンプルでお洒落だ。友人は服とか物とか、そういうところのセンスが昔から良いやつだったので、さすがである。それにしても、まさか私がハンドドリップのセットを手にすることになるとは。まさに青天の霹靂ってやつだった。私は珈琲は好きなので、ハンドドリップに対し興味が無いわけでは無かった。だが、機材を揃えても面倒くさくなって辞めるかもしれないし、そうなったら勿体ない。スーパーで売っている紙パックのやつでもコンビニで売ってるやつでも十分に美味しい。正直、ハンドドリップにこだわる理由が無かったので買おうとは思わなかった。しかし、こうして目の前に現れたのなら話は別だ。誕生日プレゼントに初めてゲームを買ってもらって、それを手にしたときと同じような気持ちになった。

ごりごりと珈琲豆を挽く

 翌朝、早速珈琲を挽いて淹れてみた。湯を沸かしてる間に、珈琲ミルに豆を入れて挽く。豆も友人からもらい、袋を開けると、今まで嗅いだことが無い、とても良い香りがした。ハンドドリップのために豆を買った人しか味わえない香りだ。スプーンですくい、ミルに入れられる豆は、壁や底にあたってカラカラと軽い音を立てて貯まっていく。そして蓋を閉め、取っ手をつけ、ゆっくりと挽いた。が、まったく動かない。思ったより固かった。ゆっくりと徐々に力をこめていく。早く挽くと豆が熱をもってしまい、良くないらしい。壊れないよな?と思うほどに力を込め始めたあたりで、ゴリっ、という音とともに取っ手が回った。それからはゴリゴリと豆を挽く音が耳に入り、豆がすりつぶされていく感触が手から伝わった。私はいま、豆を挽いてるんだなぁ、となんだか優雅な気持ちなった。

丁寧という面白み

 ごりごりと豆を挽いて、臼(挽く部分)の下にある筒状の器部分には、紙パックの珈琲でもよく見かける、細かく粉状になった豆が貯まっていた。フィルターに移すためミルの臼の部分を取り外し、中身がこぼれないように、丁寧にフィルターの中に粉を移し替えた。この取り外すというちょっとした手間や、こぼさないようにそっと器を傾けて、静かに中身を入れ替える作業などは、一種の繊細な手仕事をしているかのように感じられ、同時に、火を使った理科の実験をしているかのようなワクワクもあった。無事に移し替えところで、お湯が湧いた。タイマーをセットし、ゆっくりとお湯を注いだ。

抽出していくっ

 ポタッポタと、ドリッパーから少しずつ、珈琲がカップの中に貯まっていく。豆を挽いたり湯を注いだりすする過程で、部屋の中には芳醇な香りが漂っている。珈琲があらかた出きったところで、カップの上のドリッパーを外した。ドリッパーで蓋をされていたので、白い湯気がもわっと出てくる。たった一杯のために、こんなにも真剣かつ時間と手間をかけるなんて。非効率な気がする反面、どこか贅沢で優雅な気持ちになる。一体どんな味なのか、きっと今まで味わったことに味なのだろうな。そして、愛着すら持ってしまいそうな、初めて自分で淹れた珈琲を飲んだ。

不味い

 結論、滅茶苦茶酸っぱかった。この豆大丈夫か?と豆の腐りを疑うほど酸っぱかった。私の味覚がおかしいのかもしれないと思い、事情を話して試しに母上に飲んでみてもらった。しかし、「酸ぅっぱ!」という単語とともに、この豆大丈夫か?と豆の腐りを疑うような表情をしておられた。どうやら、時間と手間をかけた結果、信じられないくらい酸っぱい珈琲が出来上がってしまった(そして苦い)。もう、さっきまでの感動と優雅さは無かった。どうして上手く淹れられなかったんだ?こんな面白いものを貰ったのに、結果がこれであることは許せなかった。

我未熟

 結果、分かった原因は、私の挽き方と淹れかたが未熟だったことと、豆が酸味が強い豆だったからだった。実は、蒸す段階でも抽出する段階でも、粉が妙にお湯を吸わなかったのだが、それはミルの粒度が細かくなりすぎていたせいだったようだ。例えるなら、水はけの悪い泥の上に水をかけているような見た目だった。ちょっとおかしくないか?と思ったのだが、こんなものかと気にしなかった。ちゃんとおかしかったようだ。あと、豆についてだが、友人は酸味の強い珈琲が好きらしく、その豆はグアテマラ産の浅煎りの豆だった。グアテマラ産の豆は酸味が強いのが特徴で、浅煎りの豆は酸味が出るのが特徴だ。つまり、豆自体がそもそも酸っぱく、入れ方が悪いので良い酸味を引き出せず、悪い酸味が引き出されてしまったということだ。

故に珈琲を淹れる

 そんなわけで、私はただいま美味しい珈琲を淹れようと、週末の休日にはごりごりと珈琲を挽いて研究を重ねているわけだ。ミルの粒度を変えてみたり、お湯の注ぎ時間を変えてみたり、蒸すときのお湯の量を変えてみたり、撹拌してみたり、色々と試している。少なくとも、最初の滅茶苦茶酸っぱい珈琲よりは美味しいのができるようになってきている。だから、もしも急に休みになったら、私は絶対に珈琲を淹れますね。

2023年 大晦日にやる今年の反省的なやつ

2023年が終わっちまった

 2023年も無事に過ごすことができて良かった。と思ってPCに打ち込んだが、冷静に考えてみれば全然無事ではなかったなと思った。正確には「生き延びた」というべきであろう年だった。来年はどうなるのだろうと既に不安である。たしか去年もそうだった。お正月という大変めでたい明日を控えているのに、休み明け以降の日々を思わずにはいられず、それに対して不安しかなかった。ベテラン喫煙者の肺とタメをを張れそうなドス黒い何かで、肋骨の中が埋め尽くされる。なお、そのどす黒い何かは人によっては行動の原動力として利用できる場合もあるが、私がそんなガッツのある人間であるはずもなく、それは私にとってはひたすらに神経と脳のリソースを食うだけの放射性廃棄物のようなものだった。そんな去年と比べればだいぶマシだが、やはり不安は不安である。堕落した人生を歩んできたツケなのであろうと思うが、それは百も承知だが、どうにかならないだろうか。

 

2023年の年末

 実家では正月のために餅米から鏡餅を作るのだが、今年は既製品で済ませてしまうようだった。個人的には、丸めたお餅が机一杯に並んで乾くのを待っている様子が、風物詩になっちまえと思う程度には好きなので少し残念だった。しかし私も中学や高校の同級生と忘年会をしたりとあまり時間をとれなかったので、遊び呆ける私の立場からそんなことを言うのはおかしいなと思い、親には特に何も言わなかった。

 そういえば久々に友人達にあった件についてだが、私は以前にどれほど親しくしていた人間にでも、一定時間を置くとどのように会話をすれば良いか分からなくなってしまう人間なので、忘年会ではほとんど聞き役に徹した(断じてその人を嫌いになったわけではなく、本当にどう接するのが正しいのか分からなくなるのだ。)。特に困ったのは中学メンバーとの同窓会で、皆と会うのは4年ぶり。さらに隣が女性陣ときた。ただでさえ会話が苦手なのに、さらに女っ気のない人生を歩んできた私なので、どのようなテンションで、どんな質問をし、どうすれば楽しく盛り上げられるのか、必死に脳みそを回すも全く機能しなかった。相手から話を振ってくれても上手く返せないので会話が続かない、盛り上がらない。まじでゴメンと思った。幸い、トイレから戻ってきたタイミングで男メンバーが固まって席に着いており、そちらから声をかけて貰い移動することができた。ところが、男メンバーの会話に入れたものの、ここでも上手く話せない。マシンガントークで常に会話を引っ張り笑わせてくれる奴がいたからだ。結果、でしゃばって微妙な雰囲気にするよりも聞き役に徹するべきだと思い、皆と一緒に笑った。耳から入ってくる音を脳で処理するだけなので、さすがの私でも皆と楽しく笑えた。皆が元気だったし楽しい時間が過ごせて良かったが、もう少し会話に加われるようになりたい。もっと皆と近況報告をしたかったが、結局私は笑うことしかできず、90分後に皆と別れた。

 

2023年のフワッとした反省

 一言で表すと「中途半端」、がぴったりな一年だったと思う。晩秋頃からアホみたいに忙しくなったが、1年全体で見ると余裕がある時もあった。一昨年も去年もよく生きてたなというような状態だったので、その時に比べればだいぶ良い方向に進んでると思っている。しかし、やはりハードなときもあってしんどい。メンタルケアをしないまま2年と半年以上が経過したので、状況が改善してるはずなのに受けるダメージが大きいなんてことが多かった。メンタルケアに真剣に取り組んでまずは快復を図るべきだったかもしれないし、しんどさの元凶を絶つために全力で仕事をこなして自信をつけるべきだったのかもしれない。私がとった選択はどのどちらでもなく、無理をしないで上手く仕事をやりきるというものだった。だが、経験の浅い私にそんな器用なことが出来るはずがなかった。結果、無理をするべき時に必要な無理をしなかったために、本来ならいらない無理をする事態になるという、自業自得なこじれた結果となったりした。そしてそういう自分が嫌になってまたダメージを受けるという自分がまた嫌なのである。ほんと勘弁してくれ。

 

2024年のフワッとした方向性

 上手くやろうとするからいけない。それが仕事納めの28日から今年の自分を振り返って出した答えだ。手を出すなら責任が取れる範囲でやれ。色々挑戦しろとか経験しろとか世間は言うが、その言葉は私のような不器用な奴に向けられるものではない。私は自分を高くお見積もりしていたようだった。本当の自分は残念な奴だったが、本当の自分を知れたのは大きな一歩だ。と思うこととして、この反省を活かして、せめて来年は今よりもマシになっていなければならない。私は計画性もなく何でもかんでも手を出すからダメなのだ。まずは絞る。絞ることで限りある自分の時間や集中力を確実に投下し、確実な成長を感じたい。対象は以下の3つだ。

・仕事

・小説

・筋トレ

 まずは仕事。これが最優先。これが良くも悪くも全ての源泉だ。仕事ができればハッピーだし失敗すれば腹切りのつもりで全力謝罪と全力反省をする。仕事ができないと人権が無くなるので、まずは死ぬ気で頑張ろうと思う。目指せ市民権の獲得。

 次に小説。とりあえず私が好きで頭にも良さそうなものとして小説。これを無くしたたら生きる意味が無くなる。面白い小説を沢山読みたいし読んだ本が棚に並んで増えていくのは謎の満足感をくれる。今年も沢山読むぞ。

 最後に筋トレ。筋トレが最強のソリューションとか言われてるが、たぶんそれは選ばれし人だけだ。しかし科学的な効果は認められているし、私もジェイソン・ステイサムのことは格好いいと思っている。筋肉を味方したい。

 

最後に

 仕事が出来ない奴はワークライフバランスを実践することはもちろん、それを語る資格もないじゃん、と気づいたところです。たぶん、若い頃にいかにバランスを崩して余裕を作りだすかor余裕を作り出せる人間になれるよう努力できるか、これが出来るやつが将来的にワークライフバランスを実現できるのでしょう。つまり、バランスを取るためにバランスをとるな、ということです。一部の優秀な人を除き、凡人とそれ以下の人間にとっては、これが真理なんだろうと思いました。でも本当は真理じゃなきゃいいなと思ってます。

 仕事頑張ろー。

今週のお題「餅」 我が家の正月の餅事情とか

 我が実家では正月の鏡餅に一定程度の気合いが見受けられる。とはいってもそれが意図した気合いの入りようなのか、何かの事象がきっかけでその延長上で仕方なく気合いを入れているように見えるのか、その心情的な部分までは分からない。今年も残り僅かとなった。今週のお題は「餅」だし、我が家の正月のお餅事情とかについて書こうと思う。

 

今週のお題「餅」

 我が実家では正月の鏡餅に一定程度の気合いが見受けられる。この令和の時代にわざわざ鏡餅を手作りするからである。この時期になればどこのお店も正月商戦を繰り広げている。さらに、クリスマスも目前なのでクリスマス商戦も展開中という混戦ぶりだ。そんな混戦の中でも、来店者の眼にとまりやすい一角には必ずといって良いほどパックに包まれた二段姿の鏡餅が陣取っているではないか。パッキング故に汚れないし、保存が利くし、何よりお正月の鏡餅が買うだけで準備できてしまう。便利だ。江戸時代の江戸っ子が見たら「そんな物みたいな餅で正月を迎えるなんて粋じゃねぇ!」と喝を入れられそうだが、忙しい現代人には有難いことこの上ない。見事に現代の消費者の心を射止めている。どこの戦場(お店)に赴いても鏡餅将軍(鏡餅)が見事な存在感を発しているのはそういうことなのだろう。そしてその需要の高さから窺えるのは、もう鏡餅を手作りする人なんておらず、鏡餅は製品として、出来上がった物を買うのが現代の正月の主流なのだろう、ということだ。

 しかし、そのような現代においても既製品を買わずに鏡餅を自宅で作り準備する世帯もある。それがうちだ。このような時代でも既製品に頼らず、めでたい正月のために自宅で鏡餅を手作りする。我が実家ではこの忙しい浮き世にも萎れずに、鏡餅を手作りするという信念を貫いているのだ。江戸っ子が私達を見たら、「粋だねぇ!」と褒めてくれるかもしれない。

 去年の年末も、実家に帰ったときに家族で鏡餅を作ったものだ。スーパーで餅米を買い、餅米を洗う。餅米はしっかりと水分を吸わせなければならないので、餅をつく前日には水を張ったボウルに浸け置く。そして翌日に餅つき器にいれる。うむ、ここまで書いて指が止まった。そういえば、「手作り」と言ったが、よく考えれば餅つき器を使っているではないか。思い切り機械頼りである。もしかしたら手作りとは言えないかもしれない。となると江戸っ子に褒められる事は無さそうだ。むしろ裏切り者として物理的に心を射止められるかもしれない。とはいえ、この時代に既製品に頼らず、わざわざスーパーで高い餅米を買って、自宅でこねて、手作業で一つ一つ鏡餅を成形してゆくのだ、一定程度の気合いの入りようは認めてもらえるだろう。

 そもそも何故我が実家が鏡餅をわざわざ手作りするのかというと、数年前に親戚の農家から餅米を大量に貰ったことがきかっけだ。「大量」というあたりが農家の親戚あるあるだ。とても1年で消費できる量ではない。正月に鏡餅として利用するにしても、3年は持つかもしれなかった。それくらいの量だった。そして困ったことに、実はその時、我が実家は餅つき器を持っていなかった。そう、既製品で済ませていたのである。故に困った。一体どうやってこの餅米を消費すれば良いのか。案としてはお裾分けも考えたが、いかんせん量が多いし、第一貰った側もどう処理すれば良いのか分からず困るだろう。

 そのような苦悩(?)の末、父は買ってきたのだ、餅つき器を。事前に母に相談があったのかどうかは覚えていない。しかし、気になった物を買ってきて物を増やしがちな父と、あまり物は増やさずモデルハウスのような雰囲気にしたい母なので、おそらく餅つき器について母は「どこに置くんだ、、、」という思いがあったはずだ。大きさについては少々置くスペースに困る程度、と言っておこう。

 しかし、おかげで餅米消費の目処がつき、結果3年で消費仕切ることができた。全て正月の鏡餅となったのだ。そして必然的に行き着く次の問題が、「餅米が無くなったが、この餅つき器をどうするか」というものである。

 正直、既製品で事足りるのだ。だから、わざわざ手間とお金をかけて餅つき器を活用するために餅米を買ってくるメリットはほぼない。ところが、わざわざ買ってきた餅つき器であるので、できれば耐用年数ギリギリまで使って元を取りたいという気持ちもある。さらにできることなら、ぶっ壊れるまで使って元を取りまくりたい。餅つき器もとんだ主人に買われたものである。結果、我が実家では餅つき器を使うために餅米を買って、鏡餅を作る、といったややこしい因果関係のもとに、年末に鏡餅を手作りしているわけです。

 という想像を勝手にしております。餅つき器がどのような理由で今も使われているのか。真相は数年前なので記憶の彼方であり、私の脳の出来からして思い出せることは無いと断言できる。今度両親に聞いてみるか。

 こんな風に色々書いたが、実は個人的には、手間はかかるが手作りするのも以外と楽しいと思っている。というのも、なんとなく、正月に参加してるなぁ、という感じがするからだ。つまり特別感があるからだ。思えば、私は小さい頃から日本の国民行事が好きだった。ひな祭り、端午の節句、お盆、お月見、正月。

 正月になると、TVもお店もお隣さんも知らないお家も、お正月一色になる。年末の特番があり、年賀状を書いて送ったり届いたりし、玄関には正月飾りををつけた家がそこかしこで見られ、元旦になるとわざわざ深夜に神社にお参りにいく人々が沢山いて、NHKではどこかのお寺の除夜の鐘が鳴らされているのが放映されていて、科学的根拠は不明だが細く長く生きられる事を願って、決まってこの国の人達は年越しに蕎麦を食べている。長く続いた風習が、今は形骸化しているだけなのかもしれない。国民全員が示し合わせたかのように似たような作業をしている。そして、いつもは平静を装っている世間から、少しばかり心が浮ついて楽しそうな雰囲気が出ていた。子供の頃の私はその雰囲気が好きだった。まるで全国規模のお祭りのようで、何処に行っても溢れる非日常感は、まさに「めでたい」というものだった。きっと、そんな子供の頃の心の残滓があるために、私は今でも正月が好きなのだ。そして年末に一つ一つ餅を丸め、今年も終わりかとしんとした気持ちになりながら、来たる正月に心が少し浮つくのだ。

 

 

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2週間も更新してなかった件

 

先々週だったか、「マイ流行語」のお題を書いていたらパソコンがフリーズして、原稿が半分ほど消えてしまった。もう夜遅かったので書き直してる暇は無かった。それがショックだったのと、仕事と諸用に時間を取られ、ブログを更新できなかった。データの保存はこまめにやるべきだ。今日はこのブログを書きながら、こまめに右下の青枠に白地で書かれた「下書きを更新する」を押しまくった。このPCは大学の頃から使っていて、机から落とされたり飲み物をこぼされたりと、普通のPCなら故障してもおかしくない理不尽を乗り越え今に至っている。大学のレポートや卒論や部活のポスター作成や人生の目標とか日々思っていることのメモ等の真面目なことも、動画の視聴やゲームやネットでの無駄な買い物や世の男達が視聴するであろうサイトへのアクセス等といったバカみたいな事まで、このPCは私に付き合ってくれた。粗雑な扱いで大変申し訳ないという気持ちと、そんな私によく付き合ってくれたなという感謝の気持ちがある。せめてこのPCと作成してきたデータは無くならないように、今度HDDとかでも買ってこようかと思う。ご都合だが、なんとなくこのPCはそのために今も頑張ってくれている気がしてならないのだ。ありがとうPC。