思案中

あなたの暇つぶしになれば

今週のお題「急に休みになったら」 ごりごり珈琲淹れます

 年明け後のある日、高校時代の友人と喫茶店を巡った。巡ったといっても2件だけだが。私は珈琲が好きで、飲まない日は無い。友人はもっと珈琲好きで、色んな喫茶店を知っているし、そこで色んな珈琲を飲んでいる。さらに、自分で豆を挽いてお湯を注ぐ時間まで計っte珈琲を淹れている凝りっぷりだ。真の珈琲好きといえる。そんな友人が私に誕生日プレゼントをくれた。それは珈琲ミルだった。珈琲なんてスーパーで紙パックのやつを買うかコンビニで缶珈琲を買う程度しか経験がない。だからそれ以降、私は新しいおもちゃをもらった子供のように好奇心を膨らませ、休みの日は朝から豆を挽いている。

 

今週のお題「急に休みになったら」

 

急に休みになったら

 ずばり、急に休みになったら、ごりごりと珈琲豆を挽いて、ドリッパーで抽出し、丁寧に珈琲を淹れたい。平日の忙しい朝には、とてもじゃないが、そんなことはできない。一杯のためだけに時間をたっぷりと贅沢に使う。時間がある休日だからこそできるのだ。そして何より、美味しい珈琲を自分の手で淹れられるようになりたい。珈琲を豆から挽いて淹れるのは楽しいし、なんか上品な感じがして良い。ところが、珈琲を淹れて馴れてないこともあり、私が淹れるととてつもなく不味いものが出来上がってしまうのだ。どうせなら楽しく淹れて美味しく飲みたいではないか。

 なので、私は上手い珈琲を淹れることを目標にして、休日は珈琲を淹れることとしている。

きっかけは珈琲ミルをもらったこと

 冒頭のある日、夕方になってそろそろ帰ることとし、私の車で友人をアパートまで送迎した。すると、アパートの玄関先にアマゾンの箱が置いてある。友人は何事もなさそうに「届いたかー」とかいって箱を持って部屋に入る。私は無断でついていく。カッターを棚から出して中身を傷つけないように浅く刃を入れた。私がその様子を見ていたら、箱の中身の箱を取り出して私にくれた。それが珈琲ミルだった。他にもドリッパーや紙フィルターやケトルまで頼んでくれたようだった。友人曰く、私への誕生日プレゼントとのこと。まさかそんなこと考えてもいなかったので、2024年分の感謝と驚きを友人に伝えることとなった。

道具は見てるだけで楽しい

 さて、家に帰ってじっくりとそれらを観察する。「初心者用の安いやつだから」と友人は言っていたが、それでも大きな出費だったはずだ。改めて感謝した。そして見た目もシンプルでお洒落だ。友人は服とか物とか、そういうところのセンスが昔から良いやつだったので、さすがである。それにしても、まさか私がハンドドリップのセットを手にすることになるとは。まさに青天の霹靂ってやつだった。私は珈琲は好きなので、ハンドドリップに対し興味が無いわけでは無かった。だが、機材を揃えても面倒くさくなって辞めるかもしれないし、そうなったら勿体ない。スーパーで売っている紙パックのやつでもコンビニで売ってるやつでも十分に美味しい。正直、ハンドドリップにこだわる理由が無かったので買おうとは思わなかった。しかし、こうして目の前に現れたのなら話は別だ。誕生日プレゼントに初めてゲームを買ってもらって、それを手にしたときと同じような気持ちになった。

ごりごりと珈琲豆を挽く

 翌朝、早速珈琲を挽いて淹れてみた。湯を沸かしてる間に、珈琲ミルに豆を入れて挽く。豆も友人からもらい、袋を開けると、今まで嗅いだことが無い、とても良い香りがした。ハンドドリップのために豆を買った人しか味わえない香りだ。スプーンですくい、ミルに入れられる豆は、壁や底にあたってカラカラと軽い音を立てて貯まっていく。そして蓋を閉め、取っ手をつけ、ゆっくりと挽いた。が、まったく動かない。思ったより固かった。ゆっくりと徐々に力をこめていく。早く挽くと豆が熱をもってしまい、良くないらしい。壊れないよな?と思うほどに力を込め始めたあたりで、ゴリっ、という音とともに取っ手が回った。それからはゴリゴリと豆を挽く音が耳に入り、豆がすりつぶされていく感触が手から伝わった。私はいま、豆を挽いてるんだなぁ、となんだか優雅な気持ちなった。

丁寧という面白み

 ごりごりと豆を挽いて、臼(挽く部分)の下にある筒状の器部分には、紙パックの珈琲でもよく見かける、細かく粉状になった豆が貯まっていた。フィルターに移すためミルの臼の部分を取り外し、中身がこぼれないように、丁寧にフィルターの中に粉を移し替えた。この取り外すというちょっとした手間や、こぼさないようにそっと器を傾けて、静かに中身を入れ替える作業などは、一種の繊細な手仕事をしているかのように感じられ、同時に、火を使った理科の実験をしているかのようなワクワクもあった。無事に移し替えところで、お湯が湧いた。タイマーをセットし、ゆっくりとお湯を注いだ。

抽出していくっ

 ポタッポタと、ドリッパーから少しずつ、珈琲がカップの中に貯まっていく。豆を挽いたり湯を注いだりすする過程で、部屋の中には芳醇な香りが漂っている。珈琲があらかた出きったところで、カップの上のドリッパーを外した。ドリッパーで蓋をされていたので、白い湯気がもわっと出てくる。たった一杯のために、こんなにも真剣かつ時間と手間をかけるなんて。非効率な気がする反面、どこか贅沢で優雅な気持ちになる。一体どんな味なのか、きっと今まで味わったことに味なのだろうな。そして、愛着すら持ってしまいそうな、初めて自分で淹れた珈琲を飲んだ。

不味い

 結論、滅茶苦茶酸っぱかった。この豆大丈夫か?と豆の腐りを疑うほど酸っぱかった。私の味覚がおかしいのかもしれないと思い、事情を話して試しに母上に飲んでみてもらった。しかし、「酸ぅっぱ!」という単語とともに、この豆大丈夫か?と豆の腐りを疑うような表情をしておられた。どうやら、時間と手間をかけた結果、信じられないくらい酸っぱい珈琲が出来上がってしまった(そして苦い)。もう、さっきまでの感動と優雅さは無かった。どうして上手く淹れられなかったんだ?こんな面白いものを貰ったのに、結果がこれであることは許せなかった。

我未熟

 結果、分かった原因は、私の挽き方と淹れかたが未熟だったことと、豆が酸味が強い豆だったからだった。実は、蒸す段階でも抽出する段階でも、粉が妙にお湯を吸わなかったのだが、それはミルの粒度が細かくなりすぎていたせいだったようだ。例えるなら、水はけの悪い泥の上に水をかけているような見た目だった。ちょっとおかしくないか?と思ったのだが、こんなものかと気にしなかった。ちゃんとおかしかったようだ。あと、豆についてだが、友人は酸味の強い珈琲が好きらしく、その豆はグアテマラ産の浅煎りの豆だった。グアテマラ産の豆は酸味が強いのが特徴で、浅煎りの豆は酸味が出るのが特徴だ。つまり、豆自体がそもそも酸っぱく、入れ方が悪いので良い酸味を引き出せず、悪い酸味が引き出されてしまったということだ。

故に珈琲を淹れる

 そんなわけで、私はただいま美味しい珈琲を淹れようと、週末の休日にはごりごりと珈琲を挽いて研究を重ねているわけだ。ミルの粒度を変えてみたり、お湯の注ぎ時間を変えてみたり、蒸すときのお湯の量を変えてみたり、撹拌してみたり、色々と試している。少なくとも、最初の滅茶苦茶酸っぱい珈琲よりは美味しいのができるようになってきている。だから、もしも急に休みになったら、私は絶対に珈琲を淹れますね。

2023年 大晦日にやる今年の反省的なやつ

2023年が終わっちまった

 2023年も無事に過ごすことができて良かった。と思ってPCに打ち込んだが、冷静に考えてみれば全然無事ではなかったなと思った。正確には「生き延びた」というべきであろう年だった。来年はどうなるのだろうと既に不安である。たしか去年もそうだった。お正月という大変めでたい明日を控えているのに、休み明け以降の日々を思わずにはいられず、それに対して不安しかなかった。ベテラン喫煙者の肺とタメをを張れそうなドス黒い何かで、肋骨の中が埋め尽くされる。なお、そのどす黒い何かは人によっては行動の原動力として利用できる場合もあるが、私がそんなガッツのある人間であるはずもなく、それは私にとってはひたすらに神経と脳のリソースを食うだけの放射性廃棄物のようなものだった。そんな去年と比べればだいぶマシだが、やはり不安は不安である。堕落した人生を歩んできたツケなのであろうと思うが、それは百も承知だが、どうにかならないだろうか。

 

2023年の年末

 実家では正月のために餅米から鏡餅を作るのだが、今年は既製品で済ませてしまうようだった。個人的には、丸めたお餅が机一杯に並んで乾くのを待っている様子が、風物詩になっちまえと思う程度には好きなので少し残念だった。しかし私も中学や高校の同級生と忘年会をしたりとあまり時間をとれなかったので、遊び呆ける私の立場からそんなことを言うのはおかしいなと思い、親には特に何も言わなかった。

 そういえば久々に友人達にあった件についてだが、私は以前にどれほど親しくしていた人間にでも、一定時間を置くとどのように会話をすれば良いか分からなくなってしまう人間なので、忘年会ではほとんど聞き役に徹した(断じてその人を嫌いになったわけではなく、本当にどう接するのが正しいのか分からなくなるのだ。)。特に困ったのは中学メンバーとの同窓会で、皆と会うのは4年ぶり。さらに隣が女性陣ときた。ただでさえ会話が苦手なのに、さらに女っ気のない人生を歩んできた私なので、どのようなテンションで、どんな質問をし、どうすれば楽しく盛り上げられるのか、必死に脳みそを回すも全く機能しなかった。相手から話を振ってくれても上手く返せないので会話が続かない、盛り上がらない。まじでゴメンと思った。幸い、トイレから戻ってきたタイミングで男メンバーが固まって席に着いており、そちらから声をかけて貰い移動することができた。ところが、男メンバーの会話に入れたものの、ここでも上手く話せない。マシンガントークで常に会話を引っ張り笑わせてくれる奴がいたからだ。結果、でしゃばって微妙な雰囲気にするよりも聞き役に徹するべきだと思い、皆と一緒に笑った。耳から入ってくる音を脳で処理するだけなので、さすがの私でも皆と楽しく笑えた。皆が元気だったし楽しい時間が過ごせて良かったが、もう少し会話に加われるようになりたい。もっと皆と近況報告をしたかったが、結局私は笑うことしかできず、90分後に皆と別れた。

 

2023年のフワッとした反省

 一言で表すと「中途半端」、がぴったりな一年だったと思う。晩秋頃からアホみたいに忙しくなったが、1年全体で見ると余裕がある時もあった。一昨年も去年もよく生きてたなというような状態だったので、その時に比べればだいぶ良い方向に進んでると思っている。しかし、やはりハードなときもあってしんどい。メンタルケアをしないまま2年と半年以上が経過したので、状況が改善してるはずなのに受けるダメージが大きいなんてことが多かった。メンタルケアに真剣に取り組んでまずは快復を図るべきだったかもしれないし、しんどさの元凶を絶つために全力で仕事をこなして自信をつけるべきだったのかもしれない。私がとった選択はどのどちらでもなく、無理をしないで上手く仕事をやりきるというものだった。だが、経験の浅い私にそんな器用なことが出来るはずがなかった。結果、無理をするべき時に必要な無理をしなかったために、本来ならいらない無理をする事態になるという、自業自得なこじれた結果となったりした。そしてそういう自分が嫌になってまたダメージを受けるという自分がまた嫌なのである。ほんと勘弁してくれ。

 

2024年のフワッとした方向性

 上手くやろうとするからいけない。それが仕事納めの28日から今年の自分を振り返って出した答えだ。手を出すなら責任が取れる範囲でやれ。色々挑戦しろとか経験しろとか世間は言うが、その言葉は私のような不器用な奴に向けられるものではない。私は自分を高くお見積もりしていたようだった。本当の自分は残念な奴だったが、本当の自分を知れたのは大きな一歩だ。と思うこととして、この反省を活かして、せめて来年は今よりもマシになっていなければならない。私は計画性もなく何でもかんでも手を出すからダメなのだ。まずは絞る。絞ることで限りある自分の時間や集中力を確実に投下し、確実な成長を感じたい。対象は以下の3つだ。

・仕事

・小説

・筋トレ

 まずは仕事。これが最優先。これが良くも悪くも全ての源泉だ。仕事ができればハッピーだし失敗すれば腹切りのつもりで全力謝罪と全力反省をする。仕事ができないと人権が無くなるので、まずは死ぬ気で頑張ろうと思う。目指せ市民権の獲得。

 次に小説。とりあえず私が好きで頭にも良さそうなものとして小説。これを無くしたたら生きる意味が無くなる。面白い小説を沢山読みたいし読んだ本が棚に並んで増えていくのは謎の満足感をくれる。今年も沢山読むぞ。

 最後に筋トレ。筋トレが最強のソリューションとか言われてるが、たぶんそれは選ばれし人だけだ。しかし科学的な効果は認められているし、私もジェイソン・ステイサムのことは格好いいと思っている。筋肉を味方したい。

 

最後に

 仕事が出来ない奴はワークライフバランスを実践することはもちろん、それを語る資格もないじゃん、と気づいたところです。たぶん、若い頃にいかにバランスを崩して余裕を作りだすかor余裕を作り出せる人間になれるよう努力できるか、これが出来るやつが将来的にワークライフバランスを実現できるのでしょう。つまり、バランスを取るためにバランスをとるな、ということです。一部の優秀な人を除き、凡人とそれ以下の人間にとっては、これが真理なんだろうと思いました。でも本当は真理じゃなきゃいいなと思ってます。

 仕事頑張ろー。

今週のお題「餅」 我が家の正月の餅事情とか

 我が実家では正月の鏡餅に一定程度の気合いが見受けられる。とはいってもそれが意図した気合いの入りようなのか、何かの事象がきっかけでその延長上で仕方なく気合いを入れているように見えるのか、その心情的な部分までは分からない。今年も残り僅かとなった。今週のお題は「餅」だし、我が家の正月のお餅事情とかについて書こうと思う。

 

今週のお題「餅」

 我が実家では正月の鏡餅に一定程度の気合いが見受けられる。この令和の時代にわざわざ鏡餅を手作りするからである。この時期になればどこのお店も正月商戦を繰り広げている。さらに、クリスマスも目前なのでクリスマス商戦も展開中という混戦ぶりだ。そんな混戦の中でも、来店者の眼にとまりやすい一角には必ずといって良いほどパックに包まれた二段姿の鏡餅が陣取っているではないか。パッキング故に汚れないし、保存が利くし、何よりお正月の鏡餅が買うだけで準備できてしまう。便利だ。江戸時代の江戸っ子が見たら「そんな物みたいな餅で正月を迎えるなんて粋じゃねぇ!」と喝を入れられそうだが、忙しい現代人には有難いことこの上ない。見事に現代の消費者の心を射止めている。どこの戦場(お店)に赴いても鏡餅将軍(鏡餅)が見事な存在感を発しているのはそういうことなのだろう。そしてその需要の高さから窺えるのは、もう鏡餅を手作りする人なんておらず、鏡餅は製品として、出来上がった物を買うのが現代の正月の主流なのだろう、ということだ。

 しかし、そのような現代においても既製品を買わずに鏡餅を自宅で作り準備する世帯もある。それがうちだ。このような時代でも既製品に頼らず、めでたい正月のために自宅で鏡餅を手作りする。我が実家ではこの忙しい浮き世にも萎れずに、鏡餅を手作りするという信念を貫いているのだ。江戸っ子が私達を見たら、「粋だねぇ!」と褒めてくれるかもしれない。

 去年の年末も、実家に帰ったときに家族で鏡餅を作ったものだ。スーパーで餅米を買い、餅米を洗う。餅米はしっかりと水分を吸わせなければならないので、餅をつく前日には水を張ったボウルに浸け置く。そして翌日に餅つき器にいれる。うむ、ここまで書いて指が止まった。そういえば、「手作り」と言ったが、よく考えれば餅つき器を使っているではないか。思い切り機械頼りである。もしかしたら手作りとは言えないかもしれない。となると江戸っ子に褒められる事は無さそうだ。むしろ裏切り者として物理的に心を射止められるかもしれない。とはいえ、この時代に既製品に頼らず、わざわざスーパーで高い餅米を買って、自宅でこねて、手作業で一つ一つ鏡餅を成形してゆくのだ、一定程度の気合いの入りようは認めてもらえるだろう。

 そもそも何故我が実家が鏡餅をわざわざ手作りするのかというと、数年前に親戚の農家から餅米を大量に貰ったことがきかっけだ。「大量」というあたりが農家の親戚あるあるだ。とても1年で消費できる量ではない。正月に鏡餅として利用するにしても、3年は持つかもしれなかった。それくらいの量だった。そして困ったことに、実はその時、我が実家は餅つき器を持っていなかった。そう、既製品で済ませていたのである。故に困った。一体どうやってこの餅米を消費すれば良いのか。案としてはお裾分けも考えたが、いかんせん量が多いし、第一貰った側もどう処理すれば良いのか分からず困るだろう。

 そのような苦悩(?)の末、父は買ってきたのだ、餅つき器を。事前に母に相談があったのかどうかは覚えていない。しかし、気になった物を買ってきて物を増やしがちな父と、あまり物は増やさずモデルハウスのような雰囲気にしたい母なので、おそらく餅つき器について母は「どこに置くんだ、、、」という思いがあったはずだ。大きさについては少々置くスペースに困る程度、と言っておこう。

 しかし、おかげで餅米消費の目処がつき、結果3年で消費仕切ることができた。全て正月の鏡餅となったのだ。そして必然的に行き着く次の問題が、「餅米が無くなったが、この餅つき器をどうするか」というものである。

 正直、既製品で事足りるのだ。だから、わざわざ手間とお金をかけて餅つき器を活用するために餅米を買ってくるメリットはほぼない。ところが、わざわざ買ってきた餅つき器であるので、できれば耐用年数ギリギリまで使って元を取りたいという気持ちもある。さらにできることなら、ぶっ壊れるまで使って元を取りまくりたい。餅つき器もとんだ主人に買われたものである。結果、我が実家では餅つき器を使うために餅米を買って、鏡餅を作る、といったややこしい因果関係のもとに、年末に鏡餅を手作りしているわけです。

 という想像を勝手にしております。餅つき器がどのような理由で今も使われているのか。真相は数年前なので記憶の彼方であり、私の脳の出来からして思い出せることは無いと断言できる。今度両親に聞いてみるか。

 こんな風に色々書いたが、実は個人的には、手間はかかるが手作りするのも以外と楽しいと思っている。というのも、なんとなく、正月に参加してるなぁ、という感じがするからだ。つまり特別感があるからだ。思えば、私は小さい頃から日本の国民行事が好きだった。ひな祭り、端午の節句、お盆、お月見、正月。

 正月になると、TVもお店もお隣さんも知らないお家も、お正月一色になる。年末の特番があり、年賀状を書いて送ったり届いたりし、玄関には正月飾りををつけた家がそこかしこで見られ、元旦になるとわざわざ深夜に神社にお参りにいく人々が沢山いて、NHKではどこかのお寺の除夜の鐘が鳴らされているのが放映されていて、科学的根拠は不明だが細く長く生きられる事を願って、決まってこの国の人達は年越しに蕎麦を食べている。長く続いた風習が、今は形骸化しているだけなのかもしれない。国民全員が示し合わせたかのように似たような作業をしている。そして、いつもは平静を装っている世間から、少しばかり心が浮ついて楽しそうな雰囲気が出ていた。子供の頃の私はその雰囲気が好きだった。まるで全国規模のお祭りのようで、何処に行っても溢れる非日常感は、まさに「めでたい」というものだった。きっと、そんな子供の頃の心の残滓があるために、私は今でも正月が好きなのだ。そして年末に一つ一つ餅を丸め、今年も終わりかとしんとした気持ちになりながら、来たる正月に心が少し浮つくのだ。

 

 

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2週間も更新してなかった件

 

先々週だったか、「マイ流行語」のお題を書いていたらパソコンがフリーズして、原稿が半分ほど消えてしまった。もう夜遅かったので書き直してる暇は無かった。それがショックだったのと、仕事と諸用に時間を取られ、ブログを更新できなかった。データの保存はこまめにやるべきだ。今日はこのブログを書きながら、こまめに右下の青枠に白地で書かれた「下書きを更新する」を押しまくった。このPCは大学の頃から使っていて、机から落とされたり飲み物をこぼされたりと、普通のPCなら故障してもおかしくない理不尽を乗り越え今に至っている。大学のレポートや卒論や部活のポスター作成や人生の目標とか日々思っていることのメモ等の真面目なことも、動画の視聴やゲームやネットでの無駄な買い物や世の男達が視聴するであろうサイトへのアクセス等といったバカみたいな事まで、このPCは私に付き合ってくれた。粗雑な扱いで大変申し訳ないという気持ちと、そんな私によく付き合ってくれたなという感謝の気持ちがある。せめてこのPCと作成してきたデータは無くならないように、今度HDDとかでも買ってこようかと思う。ご都合だが、なんとなくこのPCはそのために今も頑張ってくれている気がしてならないのだ。ありがとうPC。

 

今週のお題「紅白鍋合戦2023」 私のささやかな鍋合戦論

 紅白鍋合戦2023。ついにこの季節が来てしまったかと、私は天上を仰いだ。そこには見慣れた天井がある。あの紅白鍋合戦がついに復活した。私は興奮を抑えるため、わざとゆっくりに空気を吸い込み、酸素で血中を満たそうとした。肺が裂けそうなくらい膨らんだところで息を吐いて、冷静な頭でもう一度確認した。「紅白鍋合戦2023」。なんだそれ?

 

今週のお題「紅白鍋合戦2023」

 

 どうやら知らぬ間に、日本は鍋合戦なるお祭り紛争状態に陥っていたようだ。大切な人と我が身を守るためにも、私達は全霊を以てしてこの合戦に臨み、勝利という名の栄養を獲得しなければならない。

 

 たしかに、最近はめっきり寒くなり、息を吐けば白くなり、虫もすっかり姿を隠し、雪がちらつく季節となった。それに併せて、TVのCMやネットの記事では、見たこともない最新の鍋合戦情報や、この冬食べたい鍋合戦など、我々庶民の鍋合戦欲を煽るようなプロパガンダが行なわれている。日照時間が短く、気温が下がると、何故か日本人は鍋合戦をしたくなるという、全子相伝の思考回路と連綿と受け継がれたDNAを体に宿しているため、先ほどのプロパガンダはそこにつけ込んだ頭の良いマーケティング戦略といえる。

 

 漏れなく私も、毎年鍋合戦に参戦している一人の男である。鍋合戦は一度経験するとそのシーズン中はなかなか止められない。熱と栄養を美味しく体内に取り入れられるし、しかも鍋に水と具材をツッコんで、コンロのつまみを左一杯に切る。これだけで勝負がついてしまうのだ。洗い物も少なくて済むため、独り暮らしの人間には有難い。

 

 上記の文章から察せられるように、私は料理にほとんど関心がない。別に料理が嫌いというわけではなく、料理に割く時間があるなら別のことをしたいと思ってしまうし、そもそも仕事が遅いので時間的余裕がないのだ。しかし、そんな私でも最低限お鍋を美味しく頂きたいという欲求は備わっているため、脳みそを絞るという物理的には可能だがあまりにも代償が大きすぎる恐ろしい慣用句を実現させ、ささやかながら自分なりに編み出した鍋合戦論がある。といっても、世間の皆様から見たら、火を初めて使った猿が「肉って焼いた方が旨いんですよ?」と無知っぷり全開で語ってるようにしか見えないだろう。内容は全く大したことではございません。そこはご了承ください。

 

 ①ニンニク

  鍋合戦に限らず煮込み系にはほとんど入れてしまうニンニク。これをいれると旨みが増すと勝手に思っていて、入れれば入れるほど旨みが増すとも思っている。旨み増す論については嘘をついているかもしれないが、栄養的には免疫力を高めたり体に活力を与えてくれるので、入れてて間違いはないと思う。

 ②味ぽん

  とりあえず味ぽんがあれば、大抵の鍋合戦は勝利することができる。ただし洋風の鍋(トマト鍋とか)には通用しないので(なんなら悪化するかも)使いどころには注意。敵が豆腐の場合はとてつもない威力を発揮する。味ぽんをつけてはふはふして食べるのは至高と思っている。

 ③春菊

  ほろ苦く少し青臭いのが癖になる。ぐつぐつとお鍋を煮込んだら最後に投入し、あまり火は通しすぎないようにする。しゃきしゃき感が残ってた方が断然美味しい。食べ過ぎるとお腹が気持ち悪くなって鍋合戦に負けてしまうので摂り過ぎに注意。②の味ぽんや醤油ベースのさっぱりしたスープと相性が良い気がする。

 ④白菜

  定番の敵。豚肉と煮込んでその脂や旨みを吸い取ってもらうと、味付けがいらないくらい美味しくなる、と感じている。シンプルに豚肉とのミルフィーユ鍋も良いけど、やっぱり色んな具材と一緒に煮込むことで旨みを無限に吸収して美味しくなるような気がする。しかし最近は価格が高いらしいので、それが玉に瑕。

 ⑤肉

  鶏か豚。動物系のタンパク質と脂質からでる旨みは旨い。

 

 こんな感じで①~⑤をベースに私は鍋合戦を展開しています。しかし③は独り暮らしかつ1回に食べきるには1袋の量が多すぎるので、最近はあまり食べていないです。

 

 こんな感じで書いてましたが、最近は仕事が忙しくてほとんど鍋合戦してません。途中コンビニで、歩きながら食べられる肉まんとかおにぎりとかチキンとかを買って、人気の少ない河原を歩いてるときに歩きながら食べて終わりです。早く残業しなくても良いくらい仕事が出来るようになって、日頃から自炊とかできるようになりたいです。あと本も読んだりジムに行ったり語学の勉強したりする時間もいつかは欲しいです。皆さんも良い鍋合戦をしてください。そうすることで、今回の「紅白鍋合戦」とか言う謎の日本語をこの国に定着させ、後に外国人が、何やねんこの日本語!とか日本語に混乱する姿を見てみたいからです。冗談です。

 

ただバイクに乗った日のブログ  

 「バイク乗ろ。。。」

 2023年11月23日。日本という国においてこの日は「勤労感謝の日」という祝日とされており、大抵の企業や自治体に勤める人々はお仕事を休むことが出来る。

 例に漏れず私もお仕事を休むことのできた人間で、日々の疲れを取るためいつもより長めにダラダラと布団の中で過ごした。そして、朝飯と言うには遅すぎる時間帯に、ブランチというにはお粗末過ぎる見た目をしたご飯らしきものを食べ、起床後の活動予定を祝日らしい回らない頭で思案していた。

 突然の休日であるので、何をして良いのか分からない。やる気も起きない。

 とりあえず、何かしなければならない。子供の手本である大人として腐ってるなと思いつつ、朝飯を食べた後のアクションは、仕事終わりの日課であるマンガアプリを開くことだった。無論仕事は休みなのでその部分はカットだ。ただ飯食ってマンガを読んでるだけである。その後、マンガを読んだという謎の達成感を原動力に台所の洗いものをし、読みかけの小説とワンピースの107巻を読み切ったところで正午になった。家に食糧がないので、仕方なく近所のコンビニに行く。ちょうど光熱費の請求書が来ていたので、私は忘れずにバックにしまう。

 玄関を開けると、この時期にしては暖かい空気が顔の肌を撫でた。しかしいささか乾燥している。最近唇が荒れてきているのであまり風はふいて欲しくない。一方で、風が気持ち良いので、もう少し風にあたりたいという自分もいる。歩いていると背中がじんわり汗をかいた。暖かい、というより少し暑い。「歩いて汗かくくらいなら、自転車で来たら風が気持ち良かったかも。」その時に冒頭の文章が頭に浮かんだ。

 「バイク乗ろ。。。」

 コンビニに入り10秒でパンコーナーで買う物を決めて、会計を終える。一瞬である。やるべきことが定まった人間は強いのだ。ちなみに光熱費の支払いは忘れた。

 

 予定のない午後。気持ちの良い天気。バイクは前回給油済み。しかも、ちょうどコンビニで諸用を済ませたいところだった。乗るための条件は揃っている。コンビニに諸用があるというのが良い。何の目的もなくバイクを走らせるのも良いが、何か目的がなければただ二酸化炭素を吐き出し地球温暖化に貢献するだけの人間になってしまう。つまり、先ほどのミスは私がバイクを乗るために、この世界が私に与えた天命だったのだと解釈することができる。買ったパンを数分で平らげ、私は着替えるために押し入れを開けた。

 輝きのある黒の帽体にブルーのシールドを装着したヘルメット、この時期には少し寒いメッシュのグローブ(これしか持ってないのだ)、昨年買ったインナープロテクター(何故か焚き火の匂いがする)。パンツは黒のジーンズで生地は厚いが伸縮性がある。上半身は少しカッシリとしたグレーのパーカーを着た。鏡の前で見るとパンツについてるポケットの、銀のファスナーが少しチャラい。バイクの服ってもう少し地味なやつないのかな。できればキレイめカジュアル路線のジャケットやパンツが欲しい。

 バイクカバーをとり、久々にバイクと相対する。真夏の海のような、濃い青空のような、とにかく綺麗なブルーの車体である。エンジンのメカメカしさはマットな黒色によって無骨さが際立つ。

 自分のバイク(ジスペケ250)は他のバイクに比べて突出したものは何もない。大型には排気量と見た目の迫力とスピードで劣るし、機敏さや取り回しをはじめとした各種スペックの成績も、同排気量の中では良くて真ん中辺りだ。見た目だって、クラシックな丸めネイキッドやクールさ全快の他のフルカウルバイクの方が、世間的にウケが良いだろう。エンジンの造形美や細部の高級感、クラッチの入り具合等、彼らの方が数段上だ。

 しかしそれでも私はコイツを買った。正直に言えば、本当は違うのが欲しかったのだが、コロナ情勢でコイツしか買えなかった。待つという手もあったが、それでは意味がなかった。私は、「今」乗りたかったのだ。そして、「猛烈にバイクが欲しい」、「乗りたい」と思ったあの時に、それを叶えてくれたのはコイツなのだ。だから愛着はある。

 あまり人気がなさそうなジスペケだが、良いところだってある。バイク紹介の記事と同じことしか書けないが、乗ってみるとその良さを実感する。SSぽい見た目の癖に足つき良いし体勢が楽だし、鈍重な割にそこまで扱いづらいわけでもないし、むしろ横風強いときなんかは重くて良かったなんて思うし、基本的に法定速度で走るから他の250バイクより馬力がなくても高回転弱くても全然困らないし、逆に低回転が強いからエンストしづらいしクネクネした山道も平気だし。あと燃費が良い。

 そして何より、SS風のゴツい見た目で、250の中では大きめの車体を有している、つまりそれなりに威圧感のある見た目をしているのに、車体は夏を思わせる爽やかなブルーなのだ。またがる度に思うのだが、ギャップ萌えする。

 

 久々にバイクに乗っても、体はしっかりと操作を記憶していた。教習を受けていたときは体が全然ついてこなくてとても苦労したのだが、それが嘘のようである。走ってみて、とても気持ちの良いバイク日和だと再確認にした。アクセルを開けながら、どこまで行こうかと思案し、折角だから久々に海を見に行くことにした。私は海に面する町に住んでいるので、20分ほど走らせれば、見晴らしの良い所に到着できる。天気が良いから、きっと海も綺麗だろうという期待が余計に今の時間を楽しくさせた。

 目的地の海に着くまでのコースは大きく2つある。直線と緩やかなカーブが多い開放感のある近年整備された新道と、海沿いの住宅街や隆起した地形に沿って作られた昔ながらの旧道コース。目的地に一直線というのも爽快感があって悪くはないが、久々のバイクなのでじっくりと「バイクに乗っている」感を味わいたかった。なのであえてカーブや起伏の激しい旧道を行く。ゆっくりと丁寧に運転することで、よりバイクの操作が上手くなったような気がする。住宅街を通るので人の飛び出しに注意しながら走った。お年寄りが多く、庭に花や野菜を育てているお家が多い。それらに彩られたカラフルな庭が沢山あるので田舎の住宅街を走るのは割と楽しい。海が近づくと起伏が激しくなる。勾配が急でカーブのRもえげつない所を無事に走り抜け、午後の2時頃には目的地に到着した。

 駐車場では車と距離を取って、目立たない所にバイクを停める。ヘルメットを取ると、つい大きく深呼吸してしまう。安全のためとはいえ、正直ヘルメットは窮屈だ。グローブとヘルメットをハンドル部分の上に置き、海を目指して駐車場の右手にある散策路に入る。空はやはり良い天気で、松林の上にある太陽がほどよい熱を提供してくれた。草本植物は緑の色素が抜け、黄緑色や茶色になって、僅かに風にそよいでいた。こういう変化を見ると、暖かいけど確実に冬に近づいているなとしみじみエモさを感じ、昔の人もきっとこうして四季の変化に趣を感じていたんだろうと思う。いとエモしは、いとおかしなのである。

 ほどよい日光を浴びて体に力がみなぎる、気がした。残念ながら私は葉緑体を持たない生物なので、エセ光合成をしながら散策路を進む、。段々と海の音が大きくなってきた。地面もごつごつとした岩場に変わってきた。最後に急な斜面を下りると、さきほどまであった藪を抜け、目の前には一面の青が広がる。とにかく綺麗なブルーである。海の青と空の青が、水平線で交わっていたが、グラーデーションが良い具合に働き、そこが一層美しく見えた。折角なら一眼レフを持ってくれば良かったと後悔したが、また来るための口実ができたと思うことにした。周りには誰もいない。高くなった岩場の上に腰を下ろし、ぼーっと海と空を眺めた。時間に追われる現代人には、このうえなく贅沢な時間だ。海は青くて、空も青い。山は緑だけど、日本人は何故か緑を青と呼ぶ文化がある。更に昔の日本人は藍を使った紺色をよく身にまとっていて、ここでも青が出てくる。そしてさらに私は12月生まれで誕生石がターコイズという石でこれも青色だ。何が良いたいのかといえば、つまり「青って良いよね」というなんの脈絡もない超個人的意見の主張である。私は青が好きなのだ。

 水平線を見ながらあの向こうまで行ってみたいなーとか思ってみた。私は外国に行ったことがないのだ。学生のとき、格安でドイツに行くチャンスがあったのだが、その時は部活の方が心境的に大事で、そのチャンスを棒に振ってしまった。部活を選んだことを悔やんではいないが、ドイツに行かなかった選択を悔やんではいる。そしてあれよあれよと卒論就活社会人となり、時間ない&お金ない人生の幕開けである。いずれは体力も無くなるのだろう。あの時の好機を逃した今、海外へのハードルはとてつもなく高いものとなっていた。

 ふと後ろを向くと、藪の向こう側から人が来る気配があった。他のお客さんに迷惑になってはならないので、そそくさと岩場から降りて海と空に別れをつげた。

 

 駐車場に戻ると、私のバイクの隣に4台のバイクが止まっていた。スクーター、カワサキのZ900、オフロード、ビキニカウルをつけたネイキッド。たぶんツーリング仲間か何かだろう。私もいつかはバイク仲間とツーリング、とか考えたが、どうやら私は一人で走る方が気楽で良いなと思う側の人間だったようだ。だから楽しい時間を他人と共有できているのであろう、目の前にある4台のバイクの主人達に勝手に敬意を払い、しっかりと横目でエンジンの造形美やタンクの張りなどを観察させてもらいつつ、ヘルメットとグローブを装着して駐車場を出た。

 その後調子にのって日暮れまで走ったのだが、太陽が山の向こうに落ちた瞬間から全身がスマホのバイブ並に震えてきたので急いでアパートに戻った。空気が冷たい。しかしそこは見た目SSマシン。シールドがあるぶん、たぶんネイキッドより防風性能はあるだろう。そんなバイクの恩恵に感謝しつつ、今日見た綺麗な青を思い出しつつ、それと同じ色をしたこのバイクを見て、やっぱ良いなと再確認するわけです。

 そしてコンビニ寄って光熱費払うの忘れたと思い出すわけです。今思い出しました。

今週のお題「最近飲んでいるもの」 私の温かい飲み物2選

 立冬を境に急に寒くなった様な気がする。吐く息が白い。卓上時計の室温表示は10度を下回っていた日があった。冬が近づき太陽はだいぶ傾いて日が短くなった。河川敷の植物のいくつかは緑の色素が抜け、茶色く乾いた姿を晒して風に揺られている。通勤中、この間まではワイシャツ姿で登校する者も見られた学生達。そんな若さの化身である彼らでさえ、薄い上着を羽織ったり、マフラーやネックウォーマー等の防寒具を身に付けている。私も通勤時は仕事着の上にフリースを羽織り、ネックウォーマーで首元と顔の下半分を寒さから守って通勤している。毛を捨てた我らの先祖は熱を逃がすことに特化しているが故、他の動物と比較し外気に体の熱を奪われやすかった。その子孫である人間はなおのことだ。私は現代人類にしては体毛が先祖返りしている方だが、そんな私でも何か着ないと生きていけない程の寒さである。こんな時期には何か温かいものを欲してしまう。体が冷たいので、口腔を通して腹の中に熱いものを取り込みたい。そんな人々(と一人の猿)の願いに応えるため、自販機やコンビニの棚の一部はホット飲料が並ぶようになった。香りの良い珈琲に、ホッとするお茶、ミルクたっぶりで優しい甘さのカフェラテ。温かい飲み物が、美味しい季節になりました。

 

今週のお題「最近飲んでいるもの」

 

 最近飲んでいるものは何?と聞かれれば、冒頭でも書いたように温かいものだ。しかし回答としてアバウトすぎる。というかずれてる。聞いているのは飲料のカテゴリーだ。他人が飲んでいる液体の運動状況に興味津々な人なんていないだろう。いたら少し怖い。なのでこうしてPCをダチャダチャしながら最近飲んでいる温かいものについて何かネタはないかと記憶を辿る。そしてできれば一回飲んだきりまたはその時の気分で手にとったものではなく、せっかく書くなら意図的に習慣的に飲んでいるものが良いなと思う。少しばかり手を止め思いついたのは、わざわざ時間をとらせて語るまでも無いありふれた飲み物ばかりだ。仮に不特定多数の人にそれを聞かせて「今回紹介された飲み物について、予想を超えてたり珍しいと思ったりするものでしたか?」と質問すれば全員が「否」と答えるだろう。他の人のブログが気になる。これを投稿したら他の人がどんなものを飲んでいるのか何を書いているのか、後で拝読して参考にさせてもらおう。

 最近飲んでいる温かいもの、2つについて書く。

 1つめは珈琲だ。仕事中の相棒とも言える珈琲。臨時の職員さんが定期的に電気ケトルに熱湯を入れてくれるので、それを使って珈琲を入れる。職場には珈琲のドリップパックが何種類か常備されていて(他にもお茶やココアや紅茶もある)私はいつも「フルーティーな香り」または「まろやか」とか記載されている赤い袋の珈琲を愛飲している。どうしてそれを愛飲しているかと言えば、苦かったり酸味が強いのは苦手だからだ。どこのメーカーかもこのブログに書きたかったが、そこまでチェックしていなかった。愛飲とか書いてる癖にそこをチェックしていないあたり、自分はアンテナの立っていない人間だなとつくづく思う。または、にわか愛飲野郎なのかもしれない。それも仕方無い。愛飲している珈琲もつい1ヶ月前まではほとんど飲んでいなかったのだ。今は夏も秋も尋常じゃないくらい暑い。そんな日に熱々の珈琲を飲むのは、いくら他の動物に比べ毛がないとはいえ熱中症で倒れてしまう。最近寒くなってきて、ようやっと熱い珈琲が恋しくなってきたところなのだ。寒い思いをして布団から這い出て、寒い思いをして通勤し、職場に着く。ドリップパックを開けた途端に良い香りがして、熱湯を注ぐとコップの周辺にそれが漂う。珈琲はスッキリしたアイスをグビグビ飲むのも好きだが、一口一口味わうならば断然ホットだ。そんな、香り豊かな美味しい珈琲を啜りながら、熱とカフェインで体を覚醒させて日々仕事に向き合うわけです。

 

 2つめはレモン汁とメープルシロップをお湯で割ったやつだ。はちみつレモンの、メープルシロップ版だと思ってもらって良いと思う。これは平日、仕事が終わって部屋で何か飲みたいなと思った時に飲むものだ。正直、味はそこまで美味しいものではない。しかしビタミンと熱と糖分を摂取できるので体は暖まる。味については改善の余地があるが、きっと、メープルではなく蜂蜜の方が美味しいと思っている。私は蜂蜜は甘すぎるという理由で、ことあるごとに料理やおやつにはメープルを利用してたのだが、今回のようにレモンと合せるとなると、甘みが弱いメープルではなく役不足だったようだ。ちょうどメープルを使い切りそうなので、後で蜂蜜を買ってそれで作ろうと思う。私にとっては緊張と寒さで疲弊した体に、熱と潤いを与えてくれる重要な回復アイテムだ。口に含むとレモンの爽やかな酸味で表情筋が中央に寄るが、飲み込むときにほのかな甘みがある。そして口腔から摂取された温かい液体は食道をつたい、肋骨にしまわれた胃に到着して内部で熱が広がりホッと一息ついてしまう。蜂蜜じゃなくても砂糖でも良いかもしれないし、レモン汁はもっと高い方が美味しいのかも知れない。ゲームのように素材や量を変えたりして、折角飲むなら、より回復量の高いドリンクを完成させたいところだ。

 今思いついたのだが、カモミールティーと合わせても良いかもしれない。カモミールティーはリラックス効果があってよく眠れるということで、一時期毎日飲んでいた。最近は飲んでいないが、その時の残りがシンク下の棚の中で眠っていたのを発見した。レモンの爽やかさとメープルの甘みで飲みやすくなるかもという期待がありつつ、収集のつかない味になるかもという不安もある。

 

今週のお題「最近読んでるもの」 小説と本が好きな理由

 私は読書が好きだ。最近は「推し燃ゆ」「ハンチバック」「火花」の、芥川賞受賞作を読んだ。どちらかというと大衆文学が好きだったのだが、純文学を読んだことがないのでチャレンジしてみようと思ったのだ。本当の本好きには及ばないが、世間に一般には本好きと呼んでも差し支えないような人間だと思っている。なので、Hatena Blogのトップぺージから「お題を探す」をクリックし、今週のお題として「最近読んでるもの」がPC画面に映ったときはなかなかに嬉しかった。やっと好きなことについて書けるぜと。しかし、いざ書こうとすると、キーボードの上に置いた10本の指をどう動かそうかと迷ってしまう。書きたいことは沢山あるはずなのにどう書けば良いのか分からないのだ。

今週のお題「最近読んでるもの」

 

 冒頭でも書いたように、最近読んでいるものは「推し燃ゆ」「ハンチバック」「火花」の芥川賞受賞作だ。それ以外では、村上春樹の「ねじまきクロニクル」や森見登美彦の「四畳半タイムマシンブルー」、知念実希人の「ヨモツイクサ」。読みかけで少し時間が経ってるのは伊坂幸太郎の「逆ソクラテス」と三島由紀夫の「葉隠入門」。

 最近が具体的にどこまでを指しているのかが分からないので、ここ1ヶ月と少しの期間で読んだ、記憶にある本を列挙した。たったの6冊しか読めていないが、これでも平日の寝る時間を惜しんで読んでいるのだ。仕事で散々目を酷使し頭も疲れた後、さらに脳みそと目を酷使するのだ。ある意味拷問だ。自傷行為で成長するのは筋肉だけである。読める時間はせいぜい30分~1時間程度。読むスピードは遅いかもしれないが本を読まない日はない。だから一応本好きだと自分では思っている。

 芥川賞受賞作を読もうと思ったのはあるマンガの影響だ。「芥の死に際」。作者は竹屋まり子さんだ。マンガアプリで何回も読み。紙で発売されると知った時はアマゾンで予約をし、紙が届いてからも何回も読んだ。主人公が夢と現実の間で苦悩しながら、純文学の作家になるために頑張るのだが、障害の連続でなかなか報われないのだ。それでも前に進む主人公の姿が非常に魅力的で引込まれてしまう。

 私を虜にするマンガの主人公を虜にする純文学。そしてその純文学の新人賞において、無名の作家に履かせる下駄としては日本一番高い下駄、芥川龍之介賞。通称芥川賞

 私が読んでる芥川賞受賞作はそういう経緯で私に購入された者達だ。(ちなみに小説は全て書店で買うようにしている)

 私が本を好きな理由は、読んでるときの没入感と、胸に穴が空いたような読後感が好きだからだ。

 映画やマンガやアニメは好きだが、その作品のなかに入り込むという没入感を最も感じさせてくれるのは、私にとっては読書だった。没入感は、今生きている自分によく馴染んだこの日常ではなく、かといって、どこか遠い所に旅行に行ったような非日常でもない所に連れて行ってくれる。体はここにあるのだが、意識だけはこの世界を離れる。大昔から日本には禁足地と呼ばれ、人が本来立ち入ってはならない場所が存在する。居ることだけでも許されない、そういう異界に放り込まれたような気味悪さを感じるのに、そこにいる文章は私の目が離れることを許さない。より馴染みのない、もっと奧に深いところに引きずり込む様にして意識に絡みつき、それから逃げることはできないのだ。第六感とでもいうべき普段使わない感覚は極限まで研ぎ澄まされ、溺れた人間が酸素を吸うことしか考えられなくなるように、自分の意識は異界の中で、ただただ情報を取り込むことしか出来なくなる。そのくらい没入感を得られる本は滅多にないが、今のところ芥川賞受賞作の「推し燃ゆ」「ハンチバック」「火花」はそういう没入感を味わうことができた。文の量も小説の中では決して多い方ではないため読み切りやすいし、どちらも舞台は現代なのでとても読みやすかった。ちなみにそういう没入感で一番強烈な体験が出来たのは村上春樹の「海辺のカフカ」だ。あれはもう一度没入感を味わうために、1度読んで以降はまだ1回も目を通していない。またあの世界に意識を放り込めれば良いなと思う。

 そしてその没入感の後、意識がこっちの世界に戻ってきた瞬間の読後感がまた癖になる。異界の何かは私の意識に執拗に絡みつき痣が出来そうなほどだったのに、その時が来ると氷が一瞬で溶けるようにあっさりと私の意識を手放す。ほんの数分数時間とはいえ、息が詰まるような中で感覚を研ぎ澄まし、必死に馴れない異界で過ごした時間は濃密だ。圧倒的な質により、意識がこっちに戻ってきた瞬間は、半分夢の中にいるようで頭がハッキリしない。しかし自分が本来いるべき世界はこっちなのだ。それを認識するのに少々時間がかかる。段々と意識がハッキリしてくると、それと同時に何か大切な物を無くしたかのような喪失感がゆっくりやって来る。とても大切なものなのに、一体何を無くしたのか、それすらも思い出せない。まるで、何者かがこの世界からそれだけを排除したかのような、そういう違和感をこの世界に覚えてしまう。しかし目に入るのは、ダークブラウンのフローリングに白い壁、雑に畳まれた掛け布団と埃を被って少し白くなったテレビだ。西向きの窓から入る傾いた太陽の光は、白いレースカーテンによって弱い光となりそれらを照らしている。正真正銘、いつもの自分の部屋である。私は背中から体の中に手を突っ込まれ、心の中の熱の塊を幾らか抉り取られたような気分だった。しかし、何故かその喪失感に安心している私もいる。それは必然的であり、むしろこの世の理に沿った正しい現象なのだとさえも感じる。部屋の中で一人、虚無と愛しさが入り交じるよく分からない感情を、抉り取られて穴になった所に詰め込む。そうして少し背伸びをして、固まった体をほぐす。私は壁際のカラーボックスの前にしゃがみ、大きさも文字もバラバラに収納された本棚の中へ、手に持っていたそれをしまうのだ。

 最近読んでいる本の面白さを伝えたいはずが、本が好きな理由を書いてしまっていた。本の中身を人に説明できるくらい細かく理解するのは難しい。自分をしっかりと理解している必要がある。どうしてその本に引込まれたの?どんなシーンが好き?どんな描写が心を打つ?登場人物に惚れた瞬間は?一生胸に刻みたいと思ったセリフとかある?そんなもの沢山ある。沢山ありすぎて分からなくなる。私の頭では覚えきれない。自分がどんな主義主張を持っているのか。どういう精神状況だったか。どんな体調だったか。そんなことでも捉え方と感じ方は変わるのだ。論理も感性も結局はその時その時で変化する。たまに、本当にこの作品を面白く読めているのだろうかと思ってしまうが、その時その時の自分にとっての面白いと楽しいを拾うしかない。

 平日も土日ももっと本が読めるように、目下の課題はいかに早く正確に仕事を終わらせるかであるかを自分への戒めとしてここに残し終わります。