思案中

あなたの暇つぶしになれば

私がブログを書く理由

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

 わたしがブログを書く理由、それは文章が上手くなりたいからだ。

 上手い文章を書けたら、きっと心地良いのだろうと、その心地よさを味わうことを夢見て、私は文章の練習としてブログを書いている。

 

 文章を書くことに興味を覚えたのは高校生の頃だ。私は幸運にも推薦入試を受ける権利を得たので、秋頃からひたすら小論文の練習をやっていた。当時の担任が現代国語の先生だったので、小論文の添削も面談の練習も、その先生に付き合ってもらっていた。私の一生の恩師である。

 

 さて、その小論文の練習で初めて添削してもらった時のことだが、見事に真っ赤になって返ってきたのを覚えている。

 「おぉ、思った以上にダメだった。」

 赤ペンにより私の文章は原型をとどめていなかったし、あまりの赤っぷりに逆に関心してしまった。

 

 経験ないだろうか、「以外といけるんじゃないか?」と思ってしまうことが。そして他人様から見れば実はダメダメなことが。

 私はしょっちゅうある。自分を過大評価していたことに気づかされて、勘違いの高揚はサーッと引いていく。そして羞恥の高揚が代わりにやってくるのだ。

 

 話が逸れた。

 

 真っ赤とはいえ先生の添削は分かりやすく、テーマに対する意見の持ち方と伝え方は非常に勉強になった。

 

 考えてみれば、正しい文章の書き方というものを、私達は学校で習っていない気がする。

 確かに国語の時間もあるし作文を書かされることもあるが、文章については大抵は誤字や文法、前後の矛盾や内容が大幅にズレていないかなど、それくらいのチェックを受けて終わりではなかっただろか。

 しかしそれだけでは足りない。大学や社会という環境に身を置くとなれば、求められるのは、自分の考えや意見を正しく分かりやすく伝えられる力だと思う。

 そこまで深くは(深くないかもしれないが)考えられなかったが、その点この小論文の練習は正しい考え方と伝え方を学んでるような気がして、今までのどの教科とも違う、不思議な面白みを感じた。

 だから、勉強なんてつまんないぜ派高校生の私にしては珍しく、興味深いなという気持ちで集中して机に向かうことができた。

 

 さて、私が書いた文章達は、最初こそ先生の赤ペンの餌食になっていたが、1文また1文と、練習を重ねるうちに、赤ペンによる制裁を受けても原型をとどめるようになってきた。

 制限時間にジリジリと追い詰められる不快感の中、苦悩して生んだ我が文章達がなんとか形を保って生還するのだ。嬉しかったし、自信にもなった。

 

 そしてさらに練習を重ね、私は自分の考えをスラスラと原稿用紙に書けるようになり、修正されることもほとんど無くなっていった。

 これはもっと嬉しいことだった。かつては自分の主張を原稿用紙に書くまでに時間ががかかっていた。○○だ!という主張に対し、何故そう思ったのか、とか、主張を補強する具体例は何かないかとか、一般的な考えと照らし合わせて変では無いだろうかとか、うんうん悩みながら文章にしなければならなかった。

 それがいつの間にか、主張が思い浮かぶと同時に、理由や具体例なども頭の中に浮かんできて、手を動かせば意識せずに文章にできるようになっていたのだ。そしてそれは先生から認めてもらえている。嬉しくないわけがない。

 

 練習を始めた当初と比べると差は歴然である。今までは原稿用紙1枚書くのにすごく時間がかかるうえ、中身も何を伝えたいのか分からなかった。でも、明らかに書くスピードは上がり、中身も良くなっている。おまけに修正されることもだいぶ減った。私の文章力は確実に成長しているという手応えがあった。

 

 そしてその年の12月。私は入試を突破することができた。

 実はその裏で、入試1週間前に過去問請求ができることに初めて気づいたり、電話してその日のうちにチャリで爆走して取りに行ったり、過去問を見たら今まで練習していた出題形式と全く異なるものだったり、それにより私のメンタルがてぇへんなことになったりしたが、鍛えた私の文章力は何とか本番までにそれに適応し、大学側に認めてもらえた。

 

 クラスの中では、推薦や指定校推薦(なんか推薦より簡単そうなやつ)により、既に受験を終えたのが数人いたが、幸運なことにその中に私は含まれた。その年は受験期とは思えない、平和な冬休みを迎えることが出来た。

 

 小論文の練習にあんなに前向きに取り組めた理由。

 それは、私が小論文に興味を持てたこと、だから練習を重ねて上達できたこと、だからやる気を保てたこと、そしてそれらを引き出してくれた先生のおかげだ。

 

 だが今思えば、自分の思考が瞬時にまとまり、手を動かして文章にしていく、その一連の行為が私にとっては新鮮で、文章を書くことそれ自体が楽しかったんだなと思う。

 

 冒頭に書き忘れたが、つまり私は、自分の思考を文章にする作業そのものが好きなのだ。ブログを書く理由も、書くのが楽しいから書くのだ。(だったら最初からそう書けってな!)

 

 

 だけど、まとまりがなかったり、乱雑だったりするのは、書いていてもあまり楽しくない。むしろモヤモヤする。ちゃんと筋道が通っていて、自分で「よし」とそう思える、満足できるような文章が書けることが条件だ。

(筋道が通ってるとか、満足できるとか言ってるが、あくまで自分の中の基準だ。)

 

 私は本を読むのも他人のブログを読むのも好きなのだが、私の考える上手い文章とはシンプルだ。時間を忘れて読んでしまう、そういう文章だ。

 誰もが経験あるであろう、1文を読むと次の文章、また次の文章と、自然と目が吸い寄せられてしまう文章。読むことを意識せずとも気づいたら次の文を追ってしまう文章。

 なんであんなに引き込まれるのだろうか。

 きっと、こっちの感情が動かされるからだなと思う。鳥肌がたったり、熱くなったり、冷え冷えとしたり、面と向かって言われているような緊張があったり、自分と重ねなるところがあって共感できたり。

 

 もし、私ががそんな風に人を感動させられるような文章を書くことができたらと思うと、月並みな感想だがワクワクしてくる。

 

 そしてそんな文章を書けたなら、書いてる瞬間は夢中になって手を動かしているのだろう。ならば、上手い文章が書けるようになりたいと、そう思わずにはいられないじゃないか!と、最近気づいたのである。

 

 今の私は、せめて文章の体裁を整えようと必死で、その程度だ。

 だが、だからといって今文章を書いているのがつまらないわけではない。最低限、文章としてまとまっていると思えるものが書けたときは、書いてる瞬間はやはり夢中になれているし、書き終われば満足感が包んでくれる。

 枯れた社会人には潤う時間が必要なのだ。

 

 だから私は、文章が上手くなりたくてブログを書いている。加えて、文章を書く行為自体が楽しいから。

 私がブログを書く理由はそんなところです。

 

ここまで読んでくださり、ありがとうございました!