今週のお題「紅白鍋合戦2023」 私のささやかな鍋合戦論
紅白鍋合戦2023。ついにこの季節が来てしまったかと、私は天上を仰いだ。そこには見慣れた天井がある。あの紅白鍋合戦がついに復活した。私は興奮を抑えるため、わざとゆっくりに空気を吸い込み、酸素で血中を満たそうとした。肺が裂けそうなくらい膨らんだところで息を吐いて、冷静な頭でもう一度確認した。「紅白鍋合戦2023」。なんだそれ?
今週のお題「紅白鍋合戦2023」
どうやら知らぬ間に、日本は鍋合戦なるお祭り紛争状態に陥っていたようだ。大切な人と我が身を守るためにも、私達は全霊を以てしてこの合戦に臨み、勝利という名の栄養を獲得しなければならない。
たしかに、最近はめっきり寒くなり、息を吐けば白くなり、虫もすっかり姿を隠し、雪がちらつく季節となった。それに併せて、TVのCMやネットの記事では、見たこともない最新の鍋合戦情報や、この冬食べたい鍋合戦など、我々庶民の鍋合戦欲を煽るようなプロパガンダが行なわれている。日照時間が短く、気温が下がると、何故か日本人は鍋合戦をしたくなるという、全子相伝の思考回路と連綿と受け継がれたDNAを体に宿しているため、先ほどのプロパガンダはそこにつけ込んだ頭の良いマーケティング戦略といえる。
漏れなく私も、毎年鍋合戦に参戦している一人の男である。鍋合戦は一度経験するとそのシーズン中はなかなか止められない。熱と栄養を美味しく体内に取り入れられるし、しかも鍋に水と具材をツッコんで、コンロのつまみを左一杯に切る。これだけで勝負がついてしまうのだ。洗い物も少なくて済むため、独り暮らしの人間には有難い。
上記の文章から察せられるように、私は料理にほとんど関心がない。別に料理が嫌いというわけではなく、料理に割く時間があるなら別のことをしたいと思ってしまうし、そもそも仕事が遅いので時間的余裕がないのだ。しかし、そんな私でも最低限お鍋を美味しく頂きたいという欲求は備わっているため、脳みそを絞るという物理的には可能だがあまりにも代償が大きすぎる恐ろしい慣用句を実現させ、ささやかながら自分なりに編み出した鍋合戦論がある。といっても、世間の皆様から見たら、火を初めて使った猿が「肉って焼いた方が旨いんですよ?」と無知っぷり全開で語ってるようにしか見えないだろう。内容は全く大したことではございません。そこはご了承ください。
①ニンニク
鍋合戦に限らず煮込み系にはほとんど入れてしまうニンニク。これをいれると旨みが増すと勝手に思っていて、入れれば入れるほど旨みが増すとも思っている。旨み増す論については嘘をついているかもしれないが、栄養的には免疫力を高めたり体に活力を与えてくれるので、入れてて間違いはないと思う。
②味ぽん
とりあえず味ぽんがあれば、大抵の鍋合戦は勝利することができる。ただし洋風の鍋(トマト鍋とか)には通用しないので(なんなら悪化するかも)使いどころには注意。敵が豆腐の場合はとてつもない威力を発揮する。味ぽんをつけてはふはふして食べるのは至高と思っている。
③春菊
ほろ苦く少し青臭いのが癖になる。ぐつぐつとお鍋を煮込んだら最後に投入し、あまり火は通しすぎないようにする。しゃきしゃき感が残ってた方が断然美味しい。食べ過ぎるとお腹が気持ち悪くなって鍋合戦に負けてしまうので摂り過ぎに注意。②の味ぽんや醤油ベースのさっぱりしたスープと相性が良い気がする。
④白菜
定番の敵。豚肉と煮込んでその脂や旨みを吸い取ってもらうと、味付けがいらないくらい美味しくなる、と感じている。シンプルに豚肉とのミルフィーユ鍋も良いけど、やっぱり色んな具材と一緒に煮込むことで旨みを無限に吸収して美味しくなるような気がする。しかし最近は価格が高いらしいので、それが玉に瑕。
⑤肉
鶏か豚。動物系のタンパク質と脂質からでる旨みは旨い。
こんな感じで①~⑤をベースに私は鍋合戦を展開しています。しかし③は独り暮らしかつ1回に食べきるには1袋の量が多すぎるので、最近はあまり食べていないです。
こんな感じで書いてましたが、最近は仕事が忙しくてほとんど鍋合戦してません。途中コンビニで、歩きながら食べられる肉まんとかおにぎりとかチキンとかを買って、人気の少ない河原を歩いてるときに歩きながら食べて終わりです。早く残業しなくても良いくらい仕事が出来るようになって、日頃から自炊とかできるようになりたいです。あと本も読んだりジムに行ったり語学の勉強したりする時間もいつかは欲しいです。皆さんも良い鍋合戦をしてください。そうすることで、今回の「紅白鍋合戦」とか言う謎の日本語をこの国に定着させ、後に外国人が、何やねんこの日本語!とか日本語に混乱する姿を見てみたいからです。冗談です。
ただバイクに乗った日のブログ
「バイク乗ろ。。。」
2023年11月23日。日本という国においてこの日は「勤労感謝の日」という祝日とされており、大抵の企業や自治体に勤める人々はお仕事を休むことが出来る。
例に漏れず私もお仕事を休むことのできた人間で、日々の疲れを取るためいつもより長めにダラダラと布団の中で過ごした。そして、朝飯と言うには遅すぎる時間帯に、ブランチというにはお粗末過ぎる見た目をしたご飯らしきものを食べ、起床後の活動予定を祝日らしい回らない頭で思案していた。
突然の休日であるので、何をして良いのか分からない。やる気も起きない。
とりあえず、何かしなければならない。子供の手本である大人として腐ってるなと思いつつ、朝飯を食べた後のアクションは、仕事終わりの日課であるマンガアプリを開くことだった。無論仕事は休みなのでその部分はカットだ。ただ飯食ってマンガを読んでるだけである。その後、マンガを読んだという謎の達成感を原動力に台所の洗いものをし、読みかけの小説とワンピースの107巻を読み切ったところで正午になった。家に食糧がないので、仕方なく近所のコンビニに行く。ちょうど光熱費の請求書が来ていたので、私は忘れずにバックにしまう。
玄関を開けると、この時期にしては暖かい空気が顔の肌を撫でた。しかしいささか乾燥している。最近唇が荒れてきているのであまり風はふいて欲しくない。一方で、風が気持ち良いので、もう少し風にあたりたいという自分もいる。歩いていると背中がじんわり汗をかいた。暖かい、というより少し暑い。「歩いて汗かくくらいなら、自転車で来たら風が気持ち良かったかも。」その時に冒頭の文章が頭に浮かんだ。
「バイク乗ろ。。。」
コンビニに入り10秒でパンコーナーで買う物を決めて、会計を終える。一瞬である。やるべきことが定まった人間は強いのだ。ちなみに光熱費の支払いは忘れた。
予定のない午後。気持ちの良い天気。バイクは前回給油済み。しかも、ちょうどコンビニで諸用を済ませたいところだった。乗るための条件は揃っている。コンビニに諸用があるというのが良い。何の目的もなくバイクを走らせるのも良いが、何か目的がなければただ二酸化炭素を吐き出し地球温暖化に貢献するだけの人間になってしまう。つまり、先ほどのミスは私がバイクを乗るために、この世界が私に与えた天命だったのだと解釈することができる。買ったパンを数分で平らげ、私は着替えるために押し入れを開けた。
輝きのある黒の帽体にブルーのシールドを装着したヘルメット、この時期には少し寒いメッシュのグローブ(これしか持ってないのだ)、昨年買ったインナープロテクター(何故か焚き火の匂いがする)。パンツは黒のジーンズで生地は厚いが伸縮性がある。上半身は少しカッシリとしたグレーのパーカーを着た。鏡の前で見るとパンツについてるポケットの、銀のファスナーが少しチャラい。バイクの服ってもう少し地味なやつないのかな。できればキレイめカジュアル路線のジャケットやパンツが欲しい。
バイクカバーをとり、久々にバイクと相対する。真夏の海のような、濃い青空のような、とにかく綺麗なブルーの車体である。エンジンのメカメカしさはマットな黒色によって無骨さが際立つ。
自分のバイク(ジスペケ250)は他のバイクに比べて突出したものは何もない。大型には排気量と見た目の迫力とスピードで劣るし、機敏さや取り回しをはじめとした各種スペックの成績も、同排気量の中では良くて真ん中辺りだ。見た目だって、クラシックな丸めネイキッドやクールさ全快の他のフルカウルバイクの方が、世間的にウケが良いだろう。エンジンの造形美や細部の高級感、クラッチの入り具合等、彼らの方が数段上だ。
しかしそれでも私はコイツを買った。正直に言えば、本当は違うのが欲しかったのだが、コロナ情勢でコイツしか買えなかった。待つという手もあったが、それでは意味がなかった。私は、「今」乗りたかったのだ。そして、「猛烈にバイクが欲しい」、「乗りたい」と思ったあの時に、それを叶えてくれたのはコイツなのだ。だから愛着はある。
あまり人気がなさそうなジスペケだが、良いところだってある。バイク紹介の記事と同じことしか書けないが、乗ってみるとその良さを実感する。SSぽい見た目の癖に足つき良いし体勢が楽だし、鈍重な割にそこまで扱いづらいわけでもないし、むしろ横風強いときなんかは重くて良かったなんて思うし、基本的に法定速度で走るから他の250バイクより馬力がなくても高回転弱くても全然困らないし、逆に低回転が強いからエンストしづらいしクネクネした山道も平気だし。あと燃費が良い。
そして何より、SS風のゴツい見た目で、250の中では大きめの車体を有している、つまりそれなりに威圧感のある見た目をしているのに、車体は夏を思わせる爽やかなブルーなのだ。またがる度に思うのだが、ギャップ萌えする。
久々にバイクに乗っても、体はしっかりと操作を記憶していた。教習を受けていたときは体が全然ついてこなくてとても苦労したのだが、それが嘘のようである。走ってみて、とても気持ちの良いバイク日和だと再確認にした。アクセルを開けながら、どこまで行こうかと思案し、折角だから久々に海を見に行くことにした。私は海に面する町に住んでいるので、20分ほど走らせれば、見晴らしの良い所に到着できる。天気が良いから、きっと海も綺麗だろうという期待が余計に今の時間を楽しくさせた。
目的地の海に着くまでのコースは大きく2つある。直線と緩やかなカーブが多い開放感のある近年整備された新道と、海沿いの住宅街や隆起した地形に沿って作られた昔ながらの旧道コース。目的地に一直線というのも爽快感があって悪くはないが、久々のバイクなのでじっくりと「バイクに乗っている」感を味わいたかった。なのであえてカーブや起伏の激しい旧道を行く。ゆっくりと丁寧に運転することで、よりバイクの操作が上手くなったような気がする。住宅街を通るので人の飛び出しに注意しながら走った。お年寄りが多く、庭に花や野菜を育てているお家が多い。それらに彩られたカラフルな庭が沢山あるので田舎の住宅街を走るのは割と楽しい。海が近づくと起伏が激しくなる。勾配が急でカーブのRもえげつない所を無事に走り抜け、午後の2時頃には目的地に到着した。
駐車場では車と距離を取って、目立たない所にバイクを停める。ヘルメットを取ると、つい大きく深呼吸してしまう。安全のためとはいえ、正直ヘルメットは窮屈だ。グローブとヘルメットをハンドル部分の上に置き、海を目指して駐車場の右手にある散策路に入る。空はやはり良い天気で、松林の上にある太陽がほどよい熱を提供してくれた。草本植物は緑の色素が抜け、黄緑色や茶色になって、僅かに風にそよいでいた。こういう変化を見ると、暖かいけど確実に冬に近づいているなとしみじみエモさを感じ、昔の人もきっとこうして四季の変化に趣を感じていたんだろうと思う。いとエモしは、いとおかしなのである。
ほどよい日光を浴びて体に力がみなぎる、気がした。残念ながら私は葉緑体を持たない生物なので、エセ光合成をしながら散策路を進む、。段々と海の音が大きくなってきた。地面もごつごつとした岩場に変わってきた。最後に急な斜面を下りると、さきほどまであった藪を抜け、目の前には一面の青が広がる。とにかく綺麗なブルーである。海の青と空の青が、水平線で交わっていたが、グラーデーションが良い具合に働き、そこが一層美しく見えた。折角なら一眼レフを持ってくれば良かったと後悔したが、また来るための口実ができたと思うことにした。周りには誰もいない。高くなった岩場の上に腰を下ろし、ぼーっと海と空を眺めた。時間に追われる現代人には、このうえなく贅沢な時間だ。海は青くて、空も青い。山は緑だけど、日本人は何故か緑を青と呼ぶ文化がある。更に昔の日本人は藍を使った紺色をよく身にまとっていて、ここでも青が出てくる。そしてさらに私は12月生まれで誕生石がターコイズという石でこれも青色だ。何が良いたいのかといえば、つまり「青って良いよね」というなんの脈絡もない超個人的意見の主張である。私は青が好きなのだ。
水平線を見ながらあの向こうまで行ってみたいなーとか思ってみた。私は外国に行ったことがないのだ。学生のとき、格安でドイツに行くチャンスがあったのだが、その時は部活の方が心境的に大事で、そのチャンスを棒に振ってしまった。部活を選んだことを悔やんではいないが、ドイツに行かなかった選択を悔やんではいる。そしてあれよあれよと卒論就活社会人となり、時間ない&お金ない人生の幕開けである。いずれは体力も無くなるのだろう。あの時の好機を逃した今、海外へのハードルはとてつもなく高いものとなっていた。
ふと後ろを向くと、藪の向こう側から人が来る気配があった。他のお客さんに迷惑になってはならないので、そそくさと岩場から降りて海と空に別れをつげた。
駐車場に戻ると、私のバイクの隣に4台のバイクが止まっていた。スクーター、カワサキのZ900、オフロード、ビキニカウルをつけたネイキッド。たぶんツーリング仲間か何かだろう。私もいつかはバイク仲間とツーリング、とか考えたが、どうやら私は一人で走る方が気楽で良いなと思う側の人間だったようだ。だから楽しい時間を他人と共有できているのであろう、目の前にある4台のバイクの主人達に勝手に敬意を払い、しっかりと横目でエンジンの造形美やタンクの張りなどを観察させてもらいつつ、ヘルメットとグローブを装着して駐車場を出た。
その後調子にのって日暮れまで走ったのだが、太陽が山の向こうに落ちた瞬間から全身がスマホのバイブ並に震えてきたので急いでアパートに戻った。空気が冷たい。しかしそこは見た目SSマシン。シールドがあるぶん、たぶんネイキッドより防風性能はあるだろう。そんなバイクの恩恵に感謝しつつ、今日見た綺麗な青を思い出しつつ、それと同じ色をしたこのバイクを見て、やっぱ良いなと再確認するわけです。
そしてコンビニ寄って光熱費払うの忘れたと思い出すわけです。今思い出しました。
今週のお題「最近飲んでいるもの」 私の温かい飲み物2選
立冬を境に急に寒くなった様な気がする。吐く息が白い。卓上時計の室温表示は10度を下回っていた日があった。冬が近づき太陽はだいぶ傾いて日が短くなった。河川敷の植物のいくつかは緑の色素が抜け、茶色く乾いた姿を晒して風に揺られている。通勤中、この間まではワイシャツ姿で登校する者も見られた学生達。そんな若さの化身である彼らでさえ、薄い上着を羽織ったり、マフラーやネックウォーマー等の防寒具を身に付けている。私も通勤時は仕事着の上にフリースを羽織り、ネックウォーマーで首元と顔の下半分を寒さから守って通勤している。毛を捨てた我らの先祖は熱を逃がすことに特化しているが故、他の動物と比較し外気に体の熱を奪われやすかった。その子孫である人間はなおのことだ。私は現代人類にしては体毛が先祖返りしている方だが、そんな私でも何か着ないと生きていけない程の寒さである。こんな時期には何か温かいものを欲してしまう。体が冷たいので、口腔を通して腹の中に熱いものを取り込みたい。そんな人々(と一人の猿)の願いに応えるため、自販機やコンビニの棚の一部はホット飲料が並ぶようになった。香りの良い珈琲に、ホッとするお茶、ミルクたっぶりで優しい甘さのカフェラテ。温かい飲み物が、美味しい季節になりました。
今週のお題「最近飲んでいるもの」
最近飲んでいるものは何?と聞かれれば、冒頭でも書いたように温かいものだ。しかし回答としてアバウトすぎる。というかずれてる。聞いているのは飲料のカテゴリーだ。他人が飲んでいる液体の運動状況に興味津々な人なんていないだろう。いたら少し怖い。なのでこうしてPCをダチャダチャしながら最近飲んでいる温かいものについて何かネタはないかと記憶を辿る。そしてできれば一回飲んだきりまたはその時の気分で手にとったものではなく、せっかく書くなら意図的に習慣的に飲んでいるものが良いなと思う。少しばかり手を止め思いついたのは、わざわざ時間をとらせて語るまでも無いありふれた飲み物ばかりだ。仮に不特定多数の人にそれを聞かせて「今回紹介された飲み物について、予想を超えてたり珍しいと思ったりするものでしたか?」と質問すれば全員が「否」と答えるだろう。他の人のブログが気になる。これを投稿したら他の人がどんなものを飲んでいるのか何を書いているのか、後で拝読して参考にさせてもらおう。
最近飲んでいる温かいもの、2つについて書く。
1つめは珈琲だ。仕事中の相棒とも言える珈琲。臨時の職員さんが定期的に電気ケトルに熱湯を入れてくれるので、それを使って珈琲を入れる。職場には珈琲のドリップパックが何種類か常備されていて(他にもお茶やココアや紅茶もある)私はいつも「フルーティーな香り」または「まろやか」とか記載されている赤い袋の珈琲を愛飲している。どうしてそれを愛飲しているかと言えば、苦かったり酸味が強いのは苦手だからだ。どこのメーカーかもこのブログに書きたかったが、そこまでチェックしていなかった。愛飲とか書いてる癖にそこをチェックしていないあたり、自分はアンテナの立っていない人間だなとつくづく思う。または、にわか愛飲野郎なのかもしれない。それも仕方無い。愛飲している珈琲もつい1ヶ月前まではほとんど飲んでいなかったのだ。今は夏も秋も尋常じゃないくらい暑い。そんな日に熱々の珈琲を飲むのは、いくら他の動物に比べ毛がないとはいえ熱中症で倒れてしまう。最近寒くなってきて、ようやっと熱い珈琲が恋しくなってきたところなのだ。寒い思いをして布団から這い出て、寒い思いをして通勤し、職場に着く。ドリップパックを開けた途端に良い香りがして、熱湯を注ぐとコップの周辺にそれが漂う。珈琲はスッキリしたアイスをグビグビ飲むのも好きだが、一口一口味わうならば断然ホットだ。そんな、香り豊かな美味しい珈琲を啜りながら、熱とカフェインで体を覚醒させて日々仕事に向き合うわけです。
2つめはレモン汁とメープルシロップをお湯で割ったやつだ。はちみつレモンの、メープルシロップ版だと思ってもらって良いと思う。これは平日、仕事が終わって部屋で何か飲みたいなと思った時に飲むものだ。正直、味はそこまで美味しいものではない。しかしビタミンと熱と糖分を摂取できるので体は暖まる。味については改善の余地があるが、きっと、メープルではなく蜂蜜の方が美味しいと思っている。私は蜂蜜は甘すぎるという理由で、ことあるごとに料理やおやつにはメープルを利用してたのだが、今回のようにレモンと合せるとなると、甘みが弱いメープルではなく役不足だったようだ。ちょうどメープルを使い切りそうなので、後で蜂蜜を買ってそれで作ろうと思う。私にとっては緊張と寒さで疲弊した体に、熱と潤いを与えてくれる重要な回復アイテムだ。口に含むとレモンの爽やかな酸味で表情筋が中央に寄るが、飲み込むときにほのかな甘みがある。そして口腔から摂取された温かい液体は食道をつたい、肋骨にしまわれた胃に到着して内部で熱が広がりホッと一息ついてしまう。蜂蜜じゃなくても砂糖でも良いかもしれないし、レモン汁はもっと高い方が美味しいのかも知れない。ゲームのように素材や量を変えたりして、折角飲むなら、より回復量の高いドリンクを完成させたいところだ。
今思いついたのだが、カモミールティーと合わせても良いかもしれない。カモミールティーはリラックス効果があってよく眠れるということで、一時期毎日飲んでいた。最近は飲んでいないが、その時の残りがシンク下の棚の中で眠っていたのを発見した。レモンの爽やかさとメープルの甘みで飲みやすくなるかもという期待がありつつ、収集のつかない味になるかもという不安もある。
今週のお題「最近読んでるもの」 小説と本が好きな理由
私は読書が好きだ。最近は「推し燃ゆ」「ハンチバック」「火花」の、芥川賞受賞作を読んだ。どちらかというと大衆文学が好きだったのだが、純文学を読んだことがないのでチャレンジしてみようと思ったのだ。本当の本好きには及ばないが、世間に一般には本好きと呼んでも差し支えないような人間だと思っている。なので、Hatena Blogのトップぺージから「お題を探す」をクリックし、今週のお題として「最近読んでるもの」がPC画面に映ったときはなかなかに嬉しかった。やっと好きなことについて書けるぜと。しかし、いざ書こうとすると、キーボードの上に置いた10本の指をどう動かそうかと迷ってしまう。書きたいことは沢山あるはずなのにどう書けば良いのか分からないのだ。
今週のお題「最近読んでるもの」
冒頭でも書いたように、最近読んでいるものは「推し燃ゆ」「ハンチバック」「火花」の芥川賞受賞作だ。それ以外では、村上春樹の「ねじまきクロニクル」や森見登美彦の「四畳半タイムマシンブルー」、知念実希人の「ヨモツイクサ」。読みかけで少し時間が経ってるのは伊坂幸太郎の「逆ソクラテス」と三島由紀夫の「葉隠入門」。
最近が具体的にどこまでを指しているのかが分からないので、ここ1ヶ月と少しの期間で読んだ、記憶にある本を列挙した。たったの6冊しか読めていないが、これでも平日の寝る時間を惜しんで読んでいるのだ。仕事で散々目を酷使し頭も疲れた後、さらに脳みそと目を酷使するのだ。ある意味拷問だ。自傷行為で成長するのは筋肉だけである。読める時間はせいぜい30分~1時間程度。読むスピードは遅いかもしれないが本を読まない日はない。だから一応本好きだと自分では思っている。
芥川賞受賞作を読もうと思ったのはあるマンガの影響だ。「芥の死に際」。作者は竹屋まり子さんだ。マンガアプリで何回も読み。紙で発売されると知った時はアマゾンで予約をし、紙が届いてからも何回も読んだ。主人公が夢と現実の間で苦悩しながら、純文学の作家になるために頑張るのだが、障害の連続でなかなか報われないのだ。それでも前に進む主人公の姿が非常に魅力的で引込まれてしまう。
私を虜にするマンガの主人公を虜にする純文学。そしてその純文学の新人賞において、無名の作家に履かせる下駄としては日本一番高い下駄、芥川龍之介賞。通称芥川賞。
私が読んでる芥川賞受賞作はそういう経緯で私に購入された者達だ。(ちなみに小説は全て書店で買うようにしている)
私が本を好きな理由は、読んでるときの没入感と、胸に穴が空いたような読後感が好きだからだ。
映画やマンガやアニメは好きだが、その作品のなかに入り込むという没入感を最も感じさせてくれるのは、私にとっては読書だった。没入感は、今生きている自分によく馴染んだこの日常ではなく、かといって、どこか遠い所に旅行に行ったような非日常でもない所に連れて行ってくれる。体はここにあるのだが、意識だけはこの世界を離れる。大昔から日本には禁足地と呼ばれ、人が本来立ち入ってはならない場所が存在する。居ることだけでも許されない、そういう異界に放り込まれたような気味悪さを感じるのに、そこにいる文章は私の目が離れることを許さない。より馴染みのない、もっと奧に深いところに引きずり込む様にして意識に絡みつき、それから逃げることはできないのだ。第六感とでもいうべき普段使わない感覚は極限まで研ぎ澄まされ、溺れた人間が酸素を吸うことしか考えられなくなるように、自分の意識は異界の中で、ただただ情報を取り込むことしか出来なくなる。そのくらい没入感を得られる本は滅多にないが、今のところ芥川賞受賞作の「推し燃ゆ」「ハンチバック」「火花」はそういう没入感を味わうことができた。文の量も小説の中では決して多い方ではないため読み切りやすいし、どちらも舞台は現代なのでとても読みやすかった。ちなみにそういう没入感で一番強烈な体験が出来たのは村上春樹の「海辺のカフカ」だ。あれはもう一度没入感を味わうために、1度読んで以降はまだ1回も目を通していない。またあの世界に意識を放り込めれば良いなと思う。
そしてその没入感の後、意識がこっちの世界に戻ってきた瞬間の読後感がまた癖になる。異界の何かは私の意識に執拗に絡みつき痣が出来そうなほどだったのに、その時が来ると氷が一瞬で溶けるようにあっさりと私の意識を手放す。ほんの数分数時間とはいえ、息が詰まるような中で感覚を研ぎ澄まし、必死に馴れない異界で過ごした時間は濃密だ。圧倒的な質により、意識がこっちに戻ってきた瞬間は、半分夢の中にいるようで頭がハッキリしない。しかし自分が本来いるべき世界はこっちなのだ。それを認識するのに少々時間がかかる。段々と意識がハッキリしてくると、それと同時に何か大切な物を無くしたかのような喪失感がゆっくりやって来る。とても大切なものなのに、一体何を無くしたのか、それすらも思い出せない。まるで、何者かがこの世界からそれだけを排除したかのような、そういう違和感をこの世界に覚えてしまう。しかし目に入るのは、ダークブラウンのフローリングに白い壁、雑に畳まれた掛け布団と埃を被って少し白くなったテレビだ。西向きの窓から入る傾いた太陽の光は、白いレースカーテンによって弱い光となりそれらを照らしている。正真正銘、いつもの自分の部屋である。私は背中から体の中に手を突っ込まれ、心の中の熱の塊を幾らか抉り取られたような気分だった。しかし、何故かその喪失感に安心している私もいる。それは必然的であり、むしろこの世の理に沿った正しい現象なのだとさえも感じる。部屋の中で一人、虚無と愛しさが入り交じるよく分からない感情を、抉り取られて穴になった所に詰め込む。そうして少し背伸びをして、固まった体をほぐす。私は壁際のカラーボックスの前にしゃがみ、大きさも文字もバラバラに収納された本棚の中へ、手に持っていたそれをしまうのだ。
最近読んでいる本の面白さを伝えたいはずが、本が好きな理由を書いてしまっていた。本の中身を人に説明できるくらい細かく理解するのは難しい。自分をしっかりと理解している必要がある。どうしてその本に引込まれたの?どんなシーンが好き?どんな描写が心を打つ?登場人物に惚れた瞬間は?一生胸に刻みたいと思ったセリフとかある?そんなもの沢山ある。沢山ありすぎて分からなくなる。私の頭では覚えきれない。自分がどんな主義主張を持っているのか。どういう精神状況だったか。どんな体調だったか。そんなことでも捉え方と感じ方は変わるのだ。論理も感性も結局はその時その時で変化する。たまに、本当にこの作品を面白く読めているのだろうかと思ってしまうが、その時その時の自分にとっての面白いと楽しいを拾うしかない。
平日も土日ももっと本が読めるように、目下の課題はいかに早く正確に仕事を終わらせるかであるかを自分への戒めとしてここに残し終わります。
今週のお題「芋」 芋料理への思い出
ジャガイモ、サツマイモ、里芋、山芋。芋、旨い。この時期に芋といえばサツマイモだろう。甘くて旨いし、スーパーでは焼き芋状態で販売されているから、すぐに食べられる。料理する手間が無いのはもちろん、片付けの手間も無いのがなお良い。芋からずれるが、サツマイモの他にも、栗やキノコや米や魚、秋は自然の恵みが嬉しい猛威を振るって我々の食を充実させてくれる。収穫の秋に万歳だ。最近、自炊が面倒くさく、料理をしていない。料理は煮込むだけで出来上がる、麺類一択の生活だ。私は久しく「芋」を食べてない。今週のお題は「芋」だが、実家にいた時に食べた芋料理を思い出して書いてみる。
今週のお題「芋」
芋と言えば何があるだろう。知っている範囲では、ジャガイモ、サツマイモ、里芋、山芋の4つだ。
ジャガイモはカレーやシチューや肉じゃが、あとお味噌汁等、値段が安いし何にでも使えるのが良い。飲食店では、マックのフライドポテトやセブンのハッシュドポテト、お菓子ではじゃがりことかポテチとかだな。ポテチいえば、小池屋の青い袋のポテチには驚いた。しかし意外と売れ行きは良いらしい。あと、驚いたのが、居酒屋のポテサラだ。初めて居酒屋でポテサラを見たときは驚いた。黒と焦げ茶の中間のような色で、縁が凸凹とした不定型な渋い皿の上に、綺麗に盛り付けられていた。黒こしょうがたっぷりと振りかけてあった。「ジャガイモのほのかな甘さとねっとり感が、黒こしょうのスパイスで引き締まる」とか、食べてもないのに脳内で食レポをしてしまった。「それにしても、何故居酒屋にポテサラ?」絶対酒に合うわけがないと思っていた。しかし、意外と酒との相性は良いらしい。ポテサラの意外な一面を見た。いつか酒と一緒に食べてみたい。
それにしても、ジャガイモはどうしてこんなに沢山の料理と合うのだろう。人間で言えば、どこの会社でも仕事ができる、優秀なビジネスマンみたいだ。これからは「どんな人間になりたいですか?」と聞かれたら、「ジャガイモみたいな人間になりたいです」と答えることにしよう。
サツマイモは甘いから、スイートポテトや大学芋など、もちろんそのまま焼いて食べても良い。最近は石焼き芋専門店などが東京にはあるらしい。ニュースで見た。大学の時にいたサークルの後輩も、大のサツマイモ好きで、いつかサツマイモ専門店を開きたいと言っていた。彼女曰く、滅茶苦茶沢山の種類があって、それぞれ食感も味も違うとのこと。私はサツマイモは好きだが品種とかまでは興味が無かったので、そのことをその時に初めて知った。
サツマイモの食感について、日本ではねっとり派とホクホク派に分かれていると、私は勝手に予想している。実家にいたときはホクホクばかりを食べていた。何故ならそれしかなかったからだ。それが社会人になり実家を離れたら、ねっとりタイプしか見かけなくなった。ねっとりを食べて分かったのは、自分がホクホク派の人間だということだ。ねっとりしていて甘さが強く、口の中にそれが居座る(物理的に)。甘いのが識名人には良いかもしれないが、私には甘さが強すぎた。また、油断して熱々に齧り付いてしまった時は、上の歯の裏側に張り付くので火傷をする。そういう訳でねっとりは苦手だ。それに対しホクホクは、あっさりした飽きのない甘さだ。また、熱々を食べても口の中にへばり付くことは滅多にないので、安心して食べられる。そういうことで、私はホクホク派なのだ。あぁ、懐かしきホクホク。また食べたいな。
里芋は醤油ベースの汁に、人参などの根菜類と、秋が旬のキノコ類、そして葉物野菜や鶏肉とかと一緒に煮込んた奴が一番好きだ。煮込むと鶏肉から脂が出て、キノコと一緒に良い出汁を提供してくれる。里芋は小さい頃は苦手だったが、ホクホクしてるくせに噛んでるとねっとりした食感があって、それが今は美味しいと感じるようになった。私の地域では芋のこ汁というが、別の地域ではまた別の呼称があるようだった。具材もそれに伴って変わるらしい。恐らく元は同じだったであろう料理が、地域によって少しずつ違いが存在するのは面白い。一番美味しいのはどれなんだろうと気になってしまう。
山芋はおろし器でゴシゴシ擦って、椀によそった白飯にかける。味付けは醤油でも良いが、そこに白だしを入れると少し上品な味と香りになる。ネギはマストだ。特に自然薯は最高だ。香りが強く味も濃い。書いてて食べたくなってきた。長芋も、同じように擦っても良いが、ステーキみたいに焼いて食べてみたことがある。割と美味しかった。薄く切って片栗粉をまぶして焼いたような気がする。味付けは鶏の照り焼きと同じだったはずだ。噛むとサクと噛み切ることができ、口の中でホクホクしていた。そしてソースの焦げが旨い。ヘルシーなのに美味しくてご飯が進んだので、結局ヘルシーの意味が無くなった日だった。
そういえば、実家に帰った時に両親が家庭菜園としてジャガイモを作っていた。今年のことだ。その栽培が面白くて印象に残っている。大きいポテチの袋に土をいれて、その中でジャガイモを栽培していたのだ。袋の大きさは約40~50cmほど。どうやらそれはホームセンターで買った栽培キットのようだった。土もあり種芋もある。袋をプランター代わりにできるので、あと必要なのは水だけだ。終わったら袋は畳んで捨てられるし。これなら庭がないアパート暮らしの人でも栽培を楽しめる。なかなか良いアイデアの商品だと思った。水をやるだけで、新鮮な採れたてのジャガイモを食べられるようになるのだから。
ところがどっこい、両親曰く、後日いざ収穫したところ、全くお芋は出来ていなかったようだ。土が悪かったのか、水やりが良くなかったのか、それとも日光か気温なのか。ジャガイモは小学生の頃に授業の一環で作ったことがある。記憶の中では大きいジャガイモが沢山取れた光景が浮かぶ。だから私は、植物が道路のコンクリを突き破って出てくるように、ポテチの袋を内側から破き、外へはみ出ざるを得ない、丸々と立派に成長したジャガイモが収穫出来るだろうと、そう予想していたのだが、それは夢想で終わってしまった。あの栽培キット事態が良くなかったのか?とも思ったが、まさかそんなものを商品にするわけも無い。きっと、たまたま色々な悪い要因が組み合わさって、不作となってしまっただけだ。来年こそは良いジャガイモが作れれば良いなと思ったが、両親がまたトライするかどうかは分からない。
遊びもかねて、来年は自分で栽培してみようかなと、思ってみたりした。
今週のお題「こぼしたもの」 付属のスープ
今週のお題は「こぼしたもの」だ。最近こぼしたものは何かあるだろうか。いや、特に思い浮かばない。ならば、「こぼした」の動作の主体を自分では無く自分以外にしてみてはどうだろうと考えてみた。
ここで先日、中華屋で店員のおばちゃんが、私の頼んだ料理を置いていくときに、付属のスープを少しだけこぼしていったことを思い出した。そのとき店内はほぼ満席だった。家族連れ、仕事仲間、若い兄ちゃん達。私は一人、カウンターの隅っこで周りに背を向ける格好だった。店員のおばちゃんは忙しかったのか、料理を置いて行くには勢いが良すぎた。慣性の法則によりスープが器からこぼれたものの、被害がお盆の外へ拡大するこはなかった。
だが、このことについて追求する気はないし、そもそも何とも思ってない。例えば、車の給油後に、ノズルから数滴が地面に落ちた、その程度だ。
あと、これは私にとっては「こぼされたもの」になる。そこまで厳密な必要はなかろうが、つまり、書くにしては熱が湧かないのだ。何か良いネタはないだろうか。
今週のお題「こぼしたもの」
「こぼす」。他の人の投稿を見て、何も物理的なものに縛られる必要は無いのだと分かった。愚痴とか、本音とか、目には見えないが実存するものも「こぼす」の対象になる。たしかに、「こぼす」は何も物だけに使用が限定されるわけじゃない。心にしまっておけず、つい口からでてしまう、そういうのも「こぼす」の対象になる。少し考えが足りなかったようだ。頭も固かった。こういうことがよくあるので、どうにかしたい。
それにしても、だとしても、「こぼしたもの」は最近何かあるだろうか。やはり思い浮かばない。
別に最近でなくてもいい。昔、学生時代とか。
そう、学生時代に私は、人生においてとても大事な物をこぼしてしまった。それはもう元には戻らない。お盆にこぼした水が容器の中に戻らないように。または地面にこぼして吸われてしまったように。仮に戻したとしても、それは人々の常識的で倫理的な視点から考えて許されないように。なかったことにはできない。
なんてこともない。
本当はあるかもしれないが、こぼしたとしても認知できていないし、認知する前に、勘が働くということもある。主観的立場からすれば、その事象は私に認知された瞬間にはじめて、私にとって存在し事実となるのだ。だからそれが怖くて、気づかないふりをしている。のかもしれない。
書くネタがなく曖昧な内容で終わろうとしている。
もしもこのまま書くとするなら、こぼしたものは、時間とか、思い出とか、チャンスとか、アイデンティティーとか、なんかそういう、月曜日の前夜にさらっと書いて中身をつくるには、あまりにも不確かでぼんやりしてて恥ずかしいテーマだ。
あまりにも字数が稼げないから、本題に入る前の冒頭の方が、まだ内容がある。
もし、何かネタができたら追記しよう。
今週のお題「納豆」 納豆嫌いが毎晩納豆を食べた結果。
子供の頃は嫌いだった。失礼を承知で言おう。まず、見るからに食い物では無いと判断できる(ホント失礼ですみません)。
正方形をした白いパックの中に、向こう側が透けるほど薄いシルクの様なシートを上から被り、そいつは真ん中に鎮座している。この段階はまだセーフだ。だが奴は、その整ったパッキングからは想像できないような、とてつもない糸と粘りを隠し持っていた。
それは、上にかかっているシートをとった瞬間に分かる。食って良いのかと判断に迷う見事な「粘り」。そしてちょっとクサい。シートを捨てたいが、粘りがどこまでも続く。普通なら切れるであろう細さになっても、よぉく見るとまだ糸が頑張っている。その糸がとてつもないヌルヌルを伴っていることは言うまでも無い。箸で切ろうとしても今度は箸にくっついて、また糸が意図せず伸びる。
本体をかき混ぜた場合はこの比ではない。信じられんくらいの糸と粘りが飽和し、プクプクとした泡ができる。どうして糸と粘りが泡になるのか。訳が分からないので、子供の頃の私にはちょっとしたホラーだった。
子供は何でもよく食べた方が良いのは分かる。しかし、幼いながらに私は本気で訴えた。「納豆はいけません」と。マジ勘弁して下さい感が伝わったのだろう。「好き嫌いをするな」という親の教育方針であったが納豆については許してもらえた。なので私は納豆と縁の無いお子様でいられた。
そんな私が社会人になり、納豆を毎晩食べるようになったのだが、その効果が半端ない。もちろん気のせいかもしれない。だが気のせいにしてこの感激を無いものにするのは少しためらわれる。なのでここに記します。
今週のお題「納豆」
冒頭でも述べたが、納豆を食べるメリットは半端じゃない。少し興奮できるほどだ。私は今後一生納豆を食べる所存だ。だって食べない理由がないのだ。健康になるし、安いし。
納豆が嫌いな人の気持ちは痛いほど分かる。たしかに、見た目と食感と匂いと粘りと糸はヤバい。だが、動物にはある程度の不快に対して、馴れるという順応が働き、生きる上での無駄なストレスを軽減する優れた能力がある。なので、納豆が嫌いだった過去の自分と苦手な人にはこうアドバイスしたい。馴れるまで我慢して食え。
この世は格差社会だ。納豆を選択せずに、他の食材で納豆から得られる栄養をカバーできる人も沢山いるだろう。むしろ、その人達は納豆を食べる人よりももっと良い栄養と効能を得ているかもしれない。だが、私のような平凡な人間には、納豆を食えと、声を大にして言いたい。あれだけ安くて体に良い食材なんて、なかなか無いからだ。もし、納豆より安くて栄養がある食材を知っている博学でインテリな方がいらっしゃるのなら教えていただきたいところだ。良質なタンパク質と脂質、食物繊維、そして納豆特有の納豆菌やナットウキナーゼはなんかよく分からんが体に良さそうだ。このような体の機能を整えてくれる食材が低価格で手に入るというのに、それを見た目と食感と匂いと粘りと糸で、選択肢から外すとは。愚か極まりない行為ではないか。
納豆の素晴らしさを書けることに感謝し、納豆を食べたことによって私の体に起きた変化かつ食べるメリットを書いていく。まぁ、ネットで調べればわんさかでてくるありふれた内容だが。
1つめ 肌が綺麗になる。
今では当たり前になりつつある男のスキンケア。とはいえ女性に比べたらその意識は低いだろう。鏡で自分の肌の状態をチェックとか、そういうことはしていない。しかし、納豆を食べて1ヶ月、そんな風に特別肌を観察するわけではない私だが、ある日顔を洗うときにあれ?と気づいた。なんか肌が綺麗になってないかと。具体的にどう変化したかは分からないが、なんか肌が綺麗になった気がした(説得力が無くて申し訳ない)。
原因は納豆では無いかもしれない。夏が終わって紫外線は減ったろうし、仕事のストレスが最近減ったし、そういうのかもしれない。だが、顔の皮脂が減ったような、少し凹凸が減ったような、そんな気がした。思い当たる原因を考えたが、私生活では納豆以外にコレと言った原因が思い浮かばない。
これが事実にしろそうでないにしろ、こういうので大事なのは、自分がそう思えるかどうかだ。もし事実なら、文句なしに喜べる良い事だ。自信が持てるだろう。仮に、実は変化が無かったとしても、自分が自分の肌が綺麗になったと思えれば、それによって自信が持てるかもしれない。だったらそれはそれで良いじゃないか。
そんな訳で無理矢理だが、納豆の効能1つめは肌が綺麗になるだ。
2つめ お通じが良い。
便秘を経験したことがある。なんか腹に詰まっている。体が重い。腹が張る。実に不快だ。当たり前だ。なぜならお前の腹の中には大量のク○が詰まってるんだからな。つまり、図らずとも自家製ウインナーを作ってしまった時は、体調も気分もすこぶるよろしくないということだ。
本来排出されるべき人間の消化物のなれの果て。うん○。水分も栄養も人間が生きるために必要なものが吸い取られもう用済みとなった、本来感謝すべきだができれば早くお別れしたい奴。便秘中は腹が張ってて苦しいから、食事が思い切り楽しめないし、屁が臭くなる(下品ですみません)。多くの人類が悩んでいる身体サイクルの不調だ。
社会人になってからは、しょっちゅう便秘に悩んでたとかそういうわけでは無いが、納豆を食べるようになって、腸の動きが良くなった気がする。いや、気がするじゃなくて良くなった、と言いきれる。食物繊維と植物性の脂質のおかげか、納豆菌やナットウキナーゼとかいうイマイチよく分からん有難そうな奴らのおかげかは定かで無いが、明らかにお通じが良い。1つめで紹介した、肌が綺麗になったというのは腸が良くなったからかもしれない。体のサイクルが整ったようで気分も良い。コロナが流行ってから免疫云々、そのためには腸が大事だ云々と言われている。いまこそ日本人は納豆食べるべきだと、私はここに声明を発す。
3つめ 筋肉がつく。
完全な主観だが、なんか筋肉の付きが良くなった気がした。特に力こぶの部分。めっちゃカットがでるようになった。人間の体はそんな簡単には変わらないことくらいは、粗末でおよそトレーニーを自称できないような、細い体だが筋トレ歴は10年の私でも知っている。だから、気のせいの可能性も十分にある。でも、「あれ、変わったな。」と感じた。最近扱える重量も増えたし、でかくなったような気がするし、なによりカットが出た。おかげで上腕二頭筋に煮卵が付いてるような見た目になった。しかも日に日にハッキリしてきている。これも1つめの肌の件と一緒だ。変化が無いよりは全然良いだということだ。努力で大事なのは変化の実感だ。おかげで努力にさらに身が入り成果が出やすくなってしまえば、勘違いから生まれた成長サイクルの出来上がりだ。だから私はこれからも納豆信じ、納豆を食す。もし筋トレしてて納豆を食ってない人がいたら、納豆を食べてみて欲しい。効果は保証する。もしも効果がなかったらごめん。
そんなわけで、3つめの納豆の効能は、筋肉がつく、だ。
たった3つの効能を、しかも真実か否か判断つきづらいものを、ダラダラともったいぶって書いてしまった。でも、これだけ書きたくなるくらい、私の納豆に対する感激は大きかったのだ。食ってない人には強く勧める。
ちなみに、私は相変わらずあの切れそうで切れない糸がうっとうしく苦手なので、熱々の汁物を食べる前に食すことにしている。あのネバネバは熱に弱いのか、箸を熱い液体でまとうと、糸がたやすく切れる。同じようにヌルヌルした口の中も、熱い汁物でサッパリさせることが出来る。口周りについたのは、ティッシュで拭くしかないかな。
さっきも納豆を食べたばかりだ。馴れると割と味も良い。だから、「納豆嫌いだけど納豆食べられるようになりたい」と言う人は、我慢して食べ続けてみて欲しい。ことわざでもあるだろう。良薬は口に苦しだ。きっと好きになる。最近はスーパーの納豆を全種類制覇しようとしているところで、食べた限りでは、熊のイラストがついた味噌タレの納豆と、わさびタレのついた納豆が美味しかった気がする。なので、それを食べてみても良いかもしれない。
そんなわけで、納豆を食べたら起きた結果でした。あなたも納豆ライフで幸あれ。